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『民主至上主義』を読んで
民主至上主義とはなにか?
『民主至上主義』では様々な政治家、および政治思想家が俎上にのせられている。まずはジャン=ジャック・ルソーに始まり、トマス・ジェファーソン、ウッドロー・ウィルソン、ジャック・マリタン、ジョン・ロールズ、ユルゲン・ハーバーマス、レオ・シュトラウス、そしてジョージ・W・ブッシュといった具合だ。
これらの思想家には一見関連性はない。政治的立場としては左右まんべんなく集められているし、大西洋の東西どちらからも選出されている。しいて言えば「西洋」と呼ばれる文化圏を出身とした男性、という共通点があるくらいだ。
そんな中で、エミリー・B・フィンレイは、これらの人々はあるひとつの政治思想の名のもとに一括できると主張する。それこそが、本書の題名ともなっている「民主至上主義Democratism」だ。
とはいえ、そんな馴染みのない言葉を聞かされても普通の読者にとってはまだまだピンとこない。彼女の言う「民主至上主義」とはいったいどういった政治思想なのだろうか?
フィンレイは、民主至上主義という言葉はこれまで厳密に定義づけられたことはないにしても、少なからぬ論者がその存在に気づいていたと主張する。その一例がエドマンド・バークで、『フランス革命についての省察』において彼は「民主主義者は、気を緩めているときには共同体の下層部を最大限の軽蔑をもって扱っているくせに、同時に彼らがあらゆる権力の貯蔵庫であるかのように装っている」と述べている。
フィンレイはこれを踏まえながら、民主至上主義とは、「レトリック上では人民の意志を擁護しながら、実際には人民による支配などにはほとんど気を配っていない」「イデオロギー」であると主張する。
彼女いわく、民主至上主義は様々な特徴を有しているが、簡単にまとめると、
①空想にもとづきながら「ほんもの」の民主主義の実現を期待する
②人間へのアンビバレントな態度
③民主至上主義を受けいれられない者の排除
④教育への絶大なる信頼
⑤民衆を導く強いリーダーの必要性を主張
などといったものが挙げられる(これ以外にも取りあげるに値する特徴は複数あるのだが、今回は話をわかりやすくするために省略する)。そして、こういった特徴を一式そろえている民主至上主義者として、フィンレイはジャン=ジャック・ルソーの名前を挙げている。
民主至上主義の始祖ルソー
ルソーは良く知られているとおり、『社会契約論』において「一般意志」という概念を重視している。しかしながら、彼はどのようにすれば一般意志が出現するかについては、曖昧な仕方でしか論証しなかった。下の一文などはその一例である。
人民が十分に情報をもって審議するとき、もし市民がお互いに意志を少しも伝えあわないなら、わずかの相違がたくさん集まって、つねに一般意志が結果し、その決議はつねによいものであるだろう。
ルソーは、十分に情報をもった市民同士が集まれば、初めはそれぞれの意見に数多くの小さな相違が見いだされるだろうが、まもなく一般意志が導きだされ良い決議へとつながるだろうと予想されている。
その一方で、ルソーは党派的な結社を否定した。仮に市民がいくつかの党を作ったうえで議論をすると、それぞれの個人は自然な形で意見を出しにくくなる。市民が党の都合に合わせて自分の意見を曲げるようでは、いつまでたっても一般意志は導き出されない、と彼は主張したのだ(先の引用の「お互いに意志を少しも伝えあわないなら」という奇妙な一文は、こういった党派的な協議を禁止していると一般に解釈されている)。
ここには『人間不平等起源論』から一貫している、ルソーの「自然」に対する圧倒的な信頼がうかがえる。彼は「もっとも普遍的でもっとも生気に満ちた人間の最初の言語、ともに集まった人々を説得することが要求される以前に必要であった唯一の言語、それは自然の叫びなのである」と述べていた。
そこからすれば、彼が一般意志の導出の方法についてどう考えていたかは比較的簡単にわかる。要するにルソーは市民それぞれが「ともに集まった人々を説得することを」目的とせず、ただ「自然な叫び」だけを上げていれば、各々を導いてくれる最良の指針は勝手に浮かびあがってくるだろう、と言いたいのだ。
これが先ほど挙げた民主至上主義の①の特徴、つまり空想でもって「ほんもの」の民主主義の実現を期待する態度に当てはまることは言うまでもない。特に、ルソーが結社を批判しているあたりは、何にもまして民主至上主義者としての本領を発揮している。既存の民主主義のあり方を批判し、それがなくなれば「ほんもの」の民主主義が実現するだろう、と彼は期待しているのだ。
では、②の「人間へのアンビバレントな態度」についてはどうだろうか。まずは、ルソーが『社会契約論』においてある程度人間を信頼していることは、先ほどの議論からも読みとれるだろう。
一方で、ルソーは超がつくほどの人間嫌いとしても知られている。
自伝的な著作において彼は、自らの孤独やパラノイアの発作や不幸について、友人や見知らぬ人をも含む周囲の人々を責める傾向にある。「私の病や悪徳は、私自身よりはむしろ大半が私の状況から生じたものだ」と、ルソーはマルゼルブへの手紙において述べている。〔……〕ルソーの信ずるところでは、彼の人生における「長きにわたる悲惨や不幸の連鎖は、彼の仲間である人間の陰謀によって引き起こされているのである」。彼は顔の見えない詐欺師たちを、「虚偽と不誠実」、「不公正」、「不遜」、「悪意」であると断罪し、そして自らの仲間すら「退屈で煩わしい」ものと見なしている。
このように、彼は理想的な人間を賛美する一方で、現実の身近にいる友人に呪詛を投げかけるようなアンビバレントな態度な持ち主だった。フィンレイは、これもまた民主至上主義者の典型的な性格だという。
「人間たちは邪悪である」という感情が、「にもかかわらず人間一般は自然的には善いものである」という信念に付随していることは、民主至上主義が概して体現しているロマン主義的な感性の一面に刻み込まれた特質なのである。
つづいて、③の「民主至上主義を受けいれられない者の排除」について見ていこう。②でも見たとおり、ルソーは自らに起こる不幸は「状況」ないし「仲間である陰謀によって引き起こされている」と考えていた。では、そうした外的な阻害要因を解消するためにはどうしたらいいか。
一般意志の外部に忠誠を誓っているような人格は、共同体の調和に対する脅威となる。一般意志や立法者の力に優先して「彼自身の力」に立ち戻ろうとする人は、ルソーによれば「故郷に対する反逆者や裏切り者」なのである。つまりその者は、「道徳的人格[personne moral]ではなく、ただの人」であり、「公共の敵」として死刑に処されるのである。
「共同体の調和に対する脅威」となる人物には改心の余地などないのであって、彼らは「反逆者や裏切り者」として排除されるしかないのである。
この点に限ればフランス革命期に大きな役割を果たしたジャコバン派についても、決してルソーの思想を曲解したわけではなく、むしろ忠実に遂行したとさえいえる、とフィンレイは主張している。
では、そういった「反逆者や裏切り者」にならないためにはどうすればいいのか? そこでルソーが訴えるのが、教育の重要性である(④)。もっとも、ルソーの考える教育は、我々の考えるような教育とは一味違っている。
最初にも見たとおり、ルソーはそれぞれの市民が「自然の叫び」を出せるような環境さえ整っていれば、おのずと一般意志は導きだされるだろうと説いていた。そのため、彼は教育にあたってもこの「自然」をことのほか重要視する。
『エミール』はルソーの教育論が開陳されていることで有名だが、そこでは「子どもが持つと想定される自発性や本来性への自然な傾向を教師が指導し、また薫育しなければならない」という方針のもとで細かな教育法が述べられている。教育者は子供の「自然」な性質を引きだすような「指導」を施さなければならないのである。
しかしながら、「自発性や本来性」が教育によって引きだされるというのは、矛盾をはらんでいる事態だ。普通に考えれば「自発性や本来性」は、それこそ「自然」に生まれるもののはずである。だが、ルソーはそうではなく、それは教育されなければ導きだされないと主張するのである。ややレトリカルな言い方をすれば、「自然」は人工的にしか生みだされないというパラドックスを抱えている。
フィンレイはこういった矛盾はルソーに限った話でなく、「民主至上主義に偏在している緊張を反映してもいる」と述べている。
そして、こういった教育への絶大なる信頼は、民衆を導く強いリーダーの必要性の主張にもつながっていく(⑤)。先ほど、一般意志の導出の仕方について確認したが、そこでルソーは、ある程度市民は洗練されていなければならないと条件をつけていた。では、市民はどのようにすれば、一般意志の導出に寄与できるほどの洗練された人間になることができるのだろうか。
ルソーが、無教育な市民でも「自然の叫び」を上げられる、などと考えなかったのは言うまでもない。市民もまた子供と同様に何らか教育を受けなければ、「自然」な意見を出すことはできないのである。
では、教育者となる人物は誰か。そこで彼が呼び出すのは「立法者」である。
ルソーによれば、平凡な市民には党派的で個人的な利害を離れた一般的で抽象的な善を視る能力が欠けているのであって、この徳を人民に提供することこそが立法者の義務なのである。なにが究極的に自らの利益であるかを理解することのできない人民にこのような変化を引き起こすために、ルソーは、立法者が彼らを非合理的な手段で説得しなければならないと言う。ルソーの立法者は、プラトンが自らの高名な国家を創設するために役立てたような「高貴な嘘」にも似た手練手管を行使しなければならないのである。「暴力なき強制と得心なき説得を可能とするような別の権威に頼りながら、立法者は社会契約を採用するように人民をだまそうとするのである」。
ルソーいわく、立法者の役割は「平凡な市民」を「社会契約を採用するように」「だま」すことである。逆を言えば、立法者によって「だま」されていない市民は「平凡な」ままにとどまって、いつまでたっても「社会契約を採用」しないだろう。
ルソーの見るところでは、世間的な民主主義者の目指すところ、つまり人民のそれぞれが各々の思うところを開陳しあってよりよい共同体を作りだす、といった目標を真に受けていては、いつまでたっても良い国家は生まれない。民主主義を成りたたせるためには、人民に知識を与え、彼らを良い方向に導く立法者が必要なのである(しかし、それは果たして民主主義と呼ぶに値するのだろうか?)。ルソーはこのように、人民による統治を理想とはしているが、根本的には人民を信用していないのである。
以上を踏まえれば、フィンレイが言うとおりルソーは「レトリック上では人民の意志を擁護しながら、実際には人民による支配などにはほとんど気を配っていない」「イデオロギー」の持ち主、つまり民主至上主義者であることは疑いえなくなるだろう。
熟議民主主義、あるいは民主至上主義
フィンレイは以後もこういった調子で、トマス・ジェファーソン、ウッドロー・ウィルソン、ジャン・マリタンなどといった政治家、ないし政治思想家がいかに「民主至上主義者」と呼ばれるにふさわしいかを論証していく。
そんな中で筆者が面白く読んだのは、「熟議民主主義」と題された第6章だ。熟議民主主義(討議民主主義)は民主主義の精神を重んじた思想と目されているだけに、それを「レトリック上では人民の意志を擁護しながら、実際には人民による支配などにはほとんど気を配っていない」「イデオロギー」とみなすのはすこぶる挑戦的である。
フィンレイはまず、熟議民主主義者のほとんどが「投票箱のみによって実践される民主主義は不適切」であり、「民主主義は、正義についてのより超越的な観念や、善についてのより全般的な観念に接近していくべきなのである」と考えている、と整理する。そして、
このような思考は、ルソーにおける一般意志と単なる「全体の意志」との間の区別に一致するものなのである。熟議民主主義が信ずるところでは、市民による熟議とは、「重なり合う合意」が有益な仕方で発見される術なのだ。
と、熟議民主主義者がルソーと変わりない民主至上主義者だと断定する。ここで民主至上主義の特徴①「空想にもとづきながら「ほんもの」の民主主義の実現を期待する」を思いだしてみよう。熟議民主主義者が「ほんもの」の民主主義を志向しているのは確かだろう。では、彼らはルソーほど空想的なのだろうか?
まずフィンレイは、ジョン・ロールズの思想を確認する。熟議民主主義の源流を求めるにあたって、ロールズの存在は極めて大きい。彼は代表作『正義論』のなかで、「無知のヴェール」という思考実験を打ち出したことで知られる。
一般的な人々は議論をするにあたって、個人的な経験、社会的地位、これまで受けてきた教育、生まれた土地の価値観などを意識的・無意識的に参照しながら自らの意見を述べがちである。
それを踏まえた上でロールズは、そういったバックボーンに依拠した意見はかならずしも分配的正義に寄与するとは限らないとし、それらをすべてないものとする「無知のヴェール」をかぶっていると想定しながら議論に臨まなければならない、と主張する。「無知のヴェール」を被った人々は「原初状態」に置かれ、あらゆる議論において主観を排し客観的に意見を述べられるようになる、というのだ。
熟議民主主義者はこういったロールズの方法を参照しながら、これと似た状態で熟議をしてこそより良い結論が出せると主張している。ロールズの教え子であるジョシュア・コーエンなどはその最たる例だ。
しかし、フィンレイはこうしたロールズ流の熟議民主主義は「過大な重荷を市民たちに背負わせる」と異議を唱える。熟議民主主義者は「自分自身の経験や哲学的観点を、議論の正当化のために用いることは許されない」という。個人的な経験や価値観を元に議論をするようでは「政治的誠実さ」が足りない、というのだが、フィンレイは以下のように反駁する。
そのような理想が人間の心理と両立不可能であるかについては議論の余地がある。そもそも私たちは、自らを育み、その理性の働きそのものを間違いなく形づくった環境や経験から、自らの理性の働きを根本的に引き離すことなどできるのだろうか。このことは、いかにして私たちがまず意見というものを形成するかについての、ある認識論的な疑問を生じさせる。しかしながら、熟議民主主義は、そのことについてはほとんど語ることはない。
これに関しては特別目新しい議論ではない。それこそ、ロールズの論敵であるマイケル・サンデルは高名な「リベラル・コミュニタリアン論争」において、「原初状態」に置かれた人間はいわば「負荷なき自己」であって、まともな議論などできるわけがないと論駁していた。
本書巻末の参考文献にサンデルの名前がないのがおかしいくらい使い古された議論なのではあるが、それはともあれ、熟議民主主義の空想性をあげつらうにあたっては有効な意見であることは間違いない。
では、民主至上主義の特徴②「人間へのアンビバレントな態度」は、熟議民主主義にもあてはまるのだろうか? これに関しては、熟議民主主義が採用する方法について見るだけでも、十分にあてはまる可能性が高い。
先ほどもみたとおり熟議民主主義は、「政治的誠実さ」を実現するために、個人的な経験や価値観をいったん保留することを推奨しているのだった。つまり、熟議民主主義者はニュートラルな状態では人間はまともに議論できないと不信を抱いているのだ。普通我々は、熟議民主主義が人間の言論能力を信用している思想だと考えがちだが、思いのほかそうでもない可能性もあるのである。
フィンレイは、熟議民主主義者が人間を信用しているようで実は信用していない例として、Brexitについての彼らの反応を取りあげている。
〔……〕ポール・カークたちは、次のように熱心に主張している。すなわち、欧州連合からの離脱をめぐるイギリスにおける国民投票(「ブレクジット」)が如実に示したのは、熟議民主主義という「制度的な基盤なき」国民投票は紛れもなく有害である事実である、と。そこに含意されているのは、熟議民主主義が提供しうる情報を与えるパンフレットやセミナーがあったなら、ブレクジットを押しとどめることができたかもしれないということである。だが、どのようにして優れた正当な人民の意志の見解が選びだされているのだろう。
熟議民主主義者は、人間が「制度的な基盤なき」状態で国民投票に臨めば、高確率で間違った結果をもたらしてしまうだろうと主張している。なのでBrexitにかんしても「情報を与えるパンフレットやセミナー」が必要だった、と訴えている。
要するに彼らは、人間は独力ではまともに思考できないと見なしているのだ。まともに思考できるようになるためには、賢い人間によって正しい方向へ導かれる必要がある、と熟議民主主義者は考えているのである(これは民主至上主義の特徴④「教育への絶大なる信頼」も思い出されるところだ)。
そうした彼らの見方自体は正しいのかもしれない。だが、仮に市民が専門家によって「正しい」情報を与えられた末に行われた国民投票で、たとえばEUからの離脱が否決されたとしよう――そうしたプロセスが果たして「民主主義」的であると言えるだろうか。
こうして見ていくと、熟議民主主義者は彼らが源流として崇めているロールズよりも、民主至上主義の源流であるルソーとすこぶる似た存在であるように思われてならない。思えば、ルソーは「暴力なき強制と得心なき説得を可能とするような別の権威に頼りながら、立法者は社会契約を採用するように人民をだまそうとするのである」と述べていた。
熟議民主主義者は「得心なき説得」をしているとは思わないかもしれないし、「人民をだまそうと」しているつもりすらないかもしれない。だが、民衆を導く強いリーダーの必要性を薄々勘づいている点では、やはり彼らはルソーと同じ穴の狢であるように思われる(民主至上主義の特徴⑤)。
フィンレイはこの点について以下のように述べている。
あるいは熟議民主主義とは、ただある支配エリートを別のエリートに交換することを欲しているだけなのではないだろうか。熟議民主主義は、理論上、平等な人々のあいだの自由な思想の交流のための枠組を提供するものであるが、しかしながらそれでもなお、ある種の階層秩序を黙認しており、そこでは、より情報と知識をもった専門家が、特定の結果に向けて市民たちの選好を導かねばならないのである。
ドイツの御用学者ユルゲン・ハーバーマス
さて、ここまでいかに熟議民主主義が民主至上主義と名指されるにふさわしいかを見てきたが、残る一つの特徴、つまり「③民主至上主義を受けいれられない者の排除」についてはどうだろうか?
まずフィンレイは、ロールズの方法を範とした熟議民主主義が最初から参加者の「個人的な道徳的信念」を排除したうえで成りたっているものだと指摘している。
その道徳的立場が自身の特別な環境に由来している市民が、「政治的利益」を目的に行為しているのだと語ることは、公正なことなのだろうか。共通善のために「私的に抱いている道徳原理ならば何であれ」抑圧せんと試みる市民などというものが、存在可能であり、また望ましいものであるかは明確ではない。というのも個人的な道徳的信念は、そうではない信念と同じ程度には、共通善に資するものかもしれないからだ。それを抽象的に規定することなど不可能である。市民たちがそのように行為する、あるいはより重大なことに、考えるように要求することは、熟議民主主義が疑う余地なく避けたいと欲するような思想警察の類型へと、危険なほど傾いていくのである。
こういった熟議民主主義にとっての理想的なモデルにもとづいた議論のなかで、最も割を食うのは誰だろうか?
真っ先に思い浮かぶのはマイノリティであろう。たとえばアメリカのある場所でなんらかの議論が行われるとして、そこに参加する黒人やアジア人、ヒスパニックなどは(熟議民主主義の教理を受けいれるならば)彼らの「個人的な道徳的信念」を捨てなければならない。となれば、彼らがふだんからかこっている不遇などは公的議論の俎上には載せられないまま、いつまで経っても解消されない惧れがある。
もちろん、こういった課題についてはこれまで熟議民主主義者も重々承知しながら改善策を案出しようと努力してきた。とはいえ、彼らは一方で根本的なスタンス、つまり「共通善」は誰もが共有できるというスタンスは崩していない。たとえば、白人にとっての第一原理となりうる善と、黒人にとっての第一原理となりうる善が異なる可能性を考慮しないのだ。
〔……〕妥協や多元主義の必要性を進んで考慮するような熟議民主主義者たちがそうするのは、深刻な政治的分断が根本的な世界観や第一原理の相違ゆえに存在しうるという信念によるというよりは、むしろ「土着の人々や人種的ないし文化的な少数者集団の正義への要求」に対する感受性のためなのである。
いうなれば熟議民主主義者は、マイノリティを対等な対話相手だとみなしているのではなく、むしろ「感受性」をもって保護すべき対象であるとみなしている。マイノリティが議論に参加することが許されるのは、熟議民主主義が標榜している「共通善」に同意するかぎりであって、その部分に反駁するようでは彼は排除されるしかない。
一般意志という理想と正しい条件づけがあれば、それが出現するという希望に満ちた展望に焦点を絞ることで、熟議民主主義は、「理にかなっていること」や「互恵性」という熟議民主主義の尺度に順応しない理由を提供する声を、黙らせるか、あるいは無視する実践上の必要性があることを隠蔽している。
こうしてみると熟議民主主義はやはり、フィンレイが挙げた民主至上主義の特徴にくまなくあてはまる思想と言わざるを得ないだろう。
筆者としてはこの視点から見ると、ある謎が解決できるように思われる。その謎とは、熟議民主主義者(もとい民主至上主義者)ユルゲン・ハーバーマスがなぜイスラエルを擁護しているのか、というものだ。
ハーバーマスは2023年10月7日のハマスによる民間人虐殺を受けて、イスラエルへ連帯する声明を三人の学者とともに連名で発表した。
この声明は11月13日に出されたものだが、すでにイスラエルの過剰な「報復」が問題視されていた中で、ハーバーマスたちがパレスチナにほとんど言及することなくイスラエルのみに連帯する姿勢を表明していたために、大きな物議をかもしだした。
ハーバーマスたちは声明のなかで、ハマスによる「残忍な」攻撃と、それに対するイスラエルの「反応」がドイツをはじめとした世界にさまざまなリアクションを促しているが、コメントを出している専門家やデモを行っている市民にも共有できるはずの「議論の余地がないような原則」があるはずだと訴えている。
そして彼らは、「それらの原則は、イスラエルとのあいだ、そしてドイツにおけるユダヤ人との正しく理解された連帯のための基礎となるものである」という……パレスチナとのあいだ、そしてドイツにおけるパレスチナ人との「正しく理解された連帯」はありえないのだろうか、と気になるところだが、ひとまず進めよう。
ハーバーマスたちは、民間人を攻撃したハマスに対してイスラエルが「報復」するのは正当だという「原則」があると確認したうえで、他にも確認すべき「原則」があるという。彼らいわく、「比例原則、民間人の犠牲の回避の原則、将来の和平を見据えた戦争遂行の原則」こそが「討議の場合に指針となる原則でなければならない」。
そして、声明のなかで最も注目すべき文言が続く。
しかし、パレスチナ住民の運命に対する懸念がどのようになされようとも、イスラエルの行動にジェノサイドの意図があるとされるならば、やはり判断基準は完全にずれてしまう。
ここでハーバーマスたちは、「イスラエルの行動にジェノサイドの意図がある」と仮定した場合、「判断基準」つまり「比例原則、民間人の犠牲の回避の原則、将来の和平を見据えた戦争遂行の原則」がすべてないものとされてしまうと述べている。
言いかえれば、イスラエルのガザ侵攻は「比例原則、民間人の犠牲の回避の原則、将来の和平を見据えた戦争遂行の原則」から判断するべきであって、「ジェノサイドの意図」があるかどうかは慎重に判断しなければならないと彼らは訴えている……もっと直截に言えば、彼らは「比例原則、民間人の犠牲の回避の原則、将来の和平を見据えた戦争遂行の原則」を持ちだすことで「ジェノサイド」かどうかを曖昧にしようと試みている。
これにつづけてハーバーマスたちは、イスラエルがどのように行動しようと、ドイツにおける「反ユダヤ主義的反応」は「正当化」されないと訴えている。実際、2023年10月7日以来、ドイツだけでなくほかの国々でも差別的な言動を浴びせられると訴えているユダヤ人は多くいる。この点にかんしては筆者も無条件に同意しよう。
とはいえ、それと並行してパレスチナに連帯しようとするデモや発言が、「反ユダヤ主義的」だとして弾圧されている現実があることも踏まえれば、彼らの声明は近視眼的であるとしか言いようがない(声明が発表され時点でもドイツでのパレスチナ支持デモはいくつか許可されていなかったし、1年以上経っても撤回どころかアップデートもされないからには、ハーバーマスたちがいまだにこうした見解を保っているとみなしてもいいだろう)。
なにより、2023年10月7日以来差別を被っているのはユダヤ人だけではない。アラブ人やムスリムもまた同様に差別を被っているのである。こうした文脈を踏まえたうえで、以下の一文を読んでみよう。
人間の尊厳を尊重する義務を志向する、ドイツ連邦共和国の民主的な自己理解は、ナチス時代の集団犯罪に照らして、ユダヤ人の生活とイスラエルの生存権が、特別な保護に値する重要な要素であるという政治文化と結びついている。
イスラエルやユダヤ人のみを特筆して取りあげているハーバーマスたちの声明は、とても「人間の尊厳を尊重している義務を志向」しているとは思えない。彼らは「ユダヤ人の生活とイスラエルの生存権が特別な保護に値する」と述べているが、アラブ人の生活やパレスチナの生存権にはノータッチなのである。
あげく、以下のような一文が続くとほとんどの読者はめまいがしてくるのではないだろうか。
このことへのコミットメントは、私たちの政治的共生の基本である。
これについては一言で返そう。イスラエルの擁護ばかりを重視して、パレスチナについて申し訳程度にしか言及しない声明のどこが「政治的共生」なのだろうか?
何か見てはいけないものを見てしまった気がするが、しかしながらここでハーバーマスたちがどこを出身地としているかをあらためて確認すると、彼らがこういった文章を書く理由もそれなりに理解できてくる。
ドイツでは周知のとおり、イスラエルの安全が「国是Staatsräson」だとされている。言うなればハーバーマスをはじめとしたドイツ人たちにとって、なにがあろうとイスラエルを擁護することは「議論の余地がないような原則」なのである。
逆に、この「原則」を受けいれられなければどうなるか。たとえば、イスラエルがパレスチナ人に対して「ジェノサイド」を犯していると主張したらどうなるか――その場合、批判者は「判断基準」をずらしていると非難されるだろう。
この段階では、まだ彼には発言権が残されているかもしれない。しかし、もしもなおもハーバーマスたちに食い下がって、イスラエルの犯していることは紛れもなくジェノサイドだ、などと詰めよったらどうなるか――その時批判者は「反ユダヤ主義的」であるとして、「討議」から排除されるだろう。
これは何も、ハーバーマスたちがファシストであるからそういった態度をとるわけではない。むしろ彼らが民主(史上)主義をこの上なく信奉しているからこそ、そういった態度をとっているのである。ハーバーマスたちは、イスラエルは絶対に擁護されるべきであるという「原則」を受けいれる人ならば、「討議」に参加してもいいと条件をつけている。一方でそれに反対したり、疑義を呈したりする者は容赦なく排除する――こういった彼らの仕草は、ファシズムというよりもむしろ熟議民主主義的、そして民主至上主義的なものなのである。
ユルゲン・ハーバーマスは声明発表時点で94歳だった。そのため当初は、彼が高齢のためにまともな思考力が失われているのではないか、と疑う声もあった。
しかし、筆者はハーバーマスの名誉のために、そんなことはない、と訴えたい。そうではなく、彼はこれまでどおりの思考力でこの声明に出しているはずである(大体、彼は2022年に93歳にして新著を出して学界を驚かせたではないか)。あくまでもこの声明「連帯の原則」は、熟議民主主義者、そして民主至上主義者としての彼の思想的立場から必然的に生みだされた声明なのだ。