プラントメーカーと三つの大震災
9月は防災月間。
私たちの日常がいかに自然災害に影響されるかを改めて考える時期。
防災月間を迎えるにあたり、日工株式会社が土工具メーカー、ならびに土木用プラントメーカーとしてこれまでに直面した3つの大震災について、その歴史を振り返りたい。
関東大震災~ショベルメーカーとして~
1919年。
当時、ショベルやツルハシといった土工農具は海外輸入に頼っており第一次世界大戦の影響で手に入れにくい状況だった。
「国産ショベルの安定供給で日本の国土開発に貢献する」
そんな志を抱いた鈴木商店工事部の重役たちにより、ショベルメーカーとして当社の歴史ははじまった。
社名を「日本工具製作株式会社」とし神戸市栄町に事務所を構える。
明石市に工場を設立し、”トンボ印”のショベルが誕生したのが1920年。
そのわずか3年後、まさにショベルの安定供給という使命を果たすときがやってきたのだった。
1923年9月1日、暦の秋は来てもまだ蒸し暑さはつづくころ。
首都、東京を襲った関東大震災が発災。
東京や横浜では建物の倒壊や火災が相次ぎ、死者・行方不明者は10万5000人を超える未曽有の大災害。
救助活動ならびにガレキ類の処理にショベル、ツルハシといった土工具が緊急で必要とされた。
同業他社全滅
さて、多数の土工具が必要になったものの関東方面の同業者は壊滅状態だった。
必然的に関西、当社への注文が激増。
鈴木商店所有の商船を利用し、被災地への土工具の積み出しを実施。
当時の専務も東京へ向かい、焦土を踏んで被災者の慰問と工具配給の直接指揮にあたったと記録されている。
震災がきっかけで、東京に出張所を設けることになり関東以北へ
事業を拡大することとなったのだった。
阪神淡路大震災~被災しながらも、使命を果たす~
時は移って1995年。
道路は舗装され、鉄筋コンクリート製の高層ビルが立ち並ぶ。
スコップなどの土工具のみでは国土開発は務まらない。
日本工具製作株式会社は日工株式会社に名を改め、アスファルト合材、生コンクリートの製造設備(プラント)を主力とするプラントメーカーに成長していた。
1月17日早朝、震源にほど近い明石市に位置する日工株式会社にも震度6の強烈な揺れが襲う。
事務所内のデスクや棚はことごとく倒れ、ビルに亀裂が入る。
当時の経営資料を振り返ると、補修には4,000万円かかると見積もられていた。
家を失い、家族や友人を亡くすという辛い経験をした社員も少なくないなか、プラントメーカーはある使命に直面する。
プラント復旧という使命
先述のとおり、日本の道路の9割はアスファルト舗装され、多くの建物にコンクリートが使用されている。
土木インフラの要であるこれらの材料は、神戸の復興のため直ちに必要となった。
アスファルト合材、生コンクリートは製造後90分以内が使用期限な
”生もの”だ。
被災しながらも、その地で製造をしなければならない。
ところが、神戸市内の複数のアスファルト工場、コンクリート工場がプラント稼働停止に陥ってしまった。
社員は被災しながらも、自転車やバイクでお客様のところへ駆けつけ、プラント被害状況を確認。
「道路がだめだと、災害復旧ははじまらない」
プラントメーカーとして、プラントを復旧する使命に直面する。
ライフラインが止まり、生活もままならない中
全社を挙げてプラントの復旧作業にあたった。
阪神淡路大震災後、耐震基準が見直され、プラントもそれに準じてより頑丈に設計されるようになった。
2025.1.17 サンテレビ様で当社の復興の取り組みが紹介されました
東日本大震災~原発事故に揺れる社内~
2011年。
未曽有の大災害が日本を襲う。
震度7の揺れに加え、広範囲にわたって津波が襲来。
沿岸部を中心に、多くのインフラが破壊された。
阪神淡路大震災と同様に、お客さまのプラントの被害状況の確認からの
スタートだった。
揺れによる倒壊はなかったものの、津波による被害が大きかった。
動力盤などの電気設備が水没すると、プラントを動かすことはできない。
対応の長期化が予想された。
支援にあたり、明石本社から距離があるため、仙台にメンテナンスサービス職や技術職などの社員で構成された震災対策本部を設置。
泊まり込みで、24時間体制で修理受付を行った。
プラント被害状況の確認および復旧にあたり、課題となったのが
福島第一原発事故による放射能汚染だった。
原発復旧のためにプラントを動かせ!
日本中を震撼させた、福島第一原子力発電所事故。
放射性物質が放出され、半径20km以内が立ち入り禁止となった。
2011年6月。
人びとが住まいや職場を後にし、だれもいなくなった双葉町の生コン工場。
そこに、防護服を身に着けた日工社員の姿があった。
当時、福島第一原発にはゼネコンが集結し復旧工事が行われていた。
高濃度汚染水が海洋に漏れるのを防ぐため、原発と海の間に遮水壁を設ける。工事に多量の生コンが必要となった。
しかし、原発に一番近いこの生コン工場のプラントは、生コンが出荷できない状況に陥っていた。
車両規制があるなか、他エリアからの応援の生コンを途中で自社のミキサー車に積み替え、どうにか搬入していたそうだ。
「日工さん。なんとか外壁は自分たちで応急復旧したけれど、機械がダメになってる。これから生コンがたくさん必要になる。
危険を伴うお願いになるが、どうにか、プラントを復旧させてほしい。」
協力要請に、社内は揺れた。
社内会議に出席した社員は、このような議論がなされたと振り返る。
そして議論の結果、
このような条項を盛り込んだ放射線管理基準書が作られ、家族が心配するなか役員含む3名が志願し、調査に赴くこととなった。
制限区域内に立ち入るには、作業員一人ひとりの放射線被ばく量を管理しなければならなかった。
ところが、放射線測定器を手に入れるのに一苦労。
国内探してもどこにもなかったという。
当時、資本関係にあったドイツの建機メーカー経由で
測定器を取り寄せ、なんとか訪問する手立てができたそうだ。
当時の役員は、こう振り返る。
プラントは、座屈などが見られ、装置入替等の復旧作業が必要な状態だった。
一人ひとりの社員に対する放射線量に留意しながら、工事計画を立てる。
工事部門からも、使命感を胸にベテラン社員たちが名乗りをあげた。
「なんとか生コンを出荷できる状態にします。」
応急作業に近い形での工事となった。
そして9月。
なんとかプラントを復旧させ、生コンの出荷が再開した。
停電が復旧する12月までは発電機を使用するなど、厳しい状況ではあった。
その後プラントは2013年の建替工事を経て、いま現在も、震災復興に貢献している。
立ち入り禁止区域内での作業の裏側でも、ひっそりと復興に関わっていた。
復興優先エリア内には、アスファルトプラントが50台、コンクリートプラント が80台あった。
これらのプラントには震災前の3倍程度の稼働が求められ、修理に加えて設備増強の対応が必要となった。
また、各地に復興用プラントも建設され、日工もプラントづくりに携わったのだった。
神戸の震災を経験したからこそ、震災復興のために全力をつくすという思いが一層強く、全社を挙げての対応となった。
90分の壁を打ち壊せ
これまで経験した震災、そして本年1月の能登半島地震を経験して
より強く実感したのが「プラント」の重要性と私たち日工の存在意義だ。
なにを今更……と思われるかもしれないが、プラントはインフラの大動脈で、それを保守するという重要な使命を担っているのだと。
しかしながら、インフラが成熟するにつれて、いつしかこの重要な役割を担うプラントの数が激減してしまった。
このままでは、もし大規模な災害が発生した際に、じゅうぶんなアスファルト合材、生コンの出荷ができない可能性がある。
新しい課題に立ち向かうため、日工は、従来90分とされていたアスファルト合材の輸送時間を伸ばす「オカモチプロジェクト」をすすめている。
日工は、いままでの経験をもとにプラントの範囲にとどまらず、災害に強いインフラづくりに向けた挑戦をつづけていく計画だ。
それが、日工の存在意義であり、使命のはずだから。
(終)
▼オカモチプロジェクト note
文:SO
協力:双葉町にある某生コン製造会社様