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均一な量産か、個性を活かすアートか

学校教育は、国民に等しく教育を授けようという意志が込められている。

これはとても素晴らしいことだ。

きっと学校教育がスタートした時代は、みんながそう思っていた。

勉強ができるということは、働くことに直結しているから。

子どもに江戸時代のことを教えたりしていると、勉強熱心な人たちがたくさんいたことがよくわかる。

勉強したくても、できなかった時代の人たちは、「学び直し」として、大学に戻ってきたりする。

そういう人たちは、学ぶことができることのありがたみを知っている。
だからこそ能動的なのだ。


教育は、国力に大きく関わっている。
国の未来を担う人材を育てるのだから、大人は子どもへの教育に期待を込めるだろう。

できるだけ優秀な人材を!
できるだけ多くの人材を!
平均的な学力を!

それが国のためになるし、みんなのためになる。
子ども達の自分のためになる。
その通りだ。

しかし、これは言ってしまえば「工場」である。
より均一で良質な製品を効率的に!
そうやって作られた人たちは量産型日本国民になる。

そして、基準に満たないものは、廃棄される。
基準を設ければ、必ず基準に満たないものが出てくる。
それが「落ちこぼれ」と呼ばれた。

今、学力的に高品質な人材を育てることを重視し、内容を詰めに詰め込んだ学校教育は破綻寸前。

子どもに搭載しようとする機能が多すぎる。
何から何まで突っ込もうとたし算を繰り返している。

しかし、学校も、子どもも、キャパオーバーな状態だ。

あぶれるものが必ず出てくる。
いや、出てきている。

工場としての学校教育を、見直していく段階に入っていると、私は思う。


一人一人ができることを、得意なことや好きなことを伸ばし、自由に選択して、学びを掴み取っていった方がいいのでは。

私があまりにも、でこぼこしている子ども達を見ているからこそ、そう思うのだろう。

彼らには彼らの、良いところがあるのだ。

彼らの個性を活かせる場所があるのだ。

少々算数ができなくたっていいじゃないか。
数の概念が理解できなくてもいいじゃないか。
言葉の意味がわからなくてもいいじゃないか。
人の気持ちが理解できなくてもいいじゃないか……


焼き上がったら口がくにゃっと真横を向いている。
そんな花瓶も、「これ……窓際に置いて長い植物垂らしたらいい感じにならない?」と必ず活かせるところがある。

これは教育にも言えることだ。

それは、言い換えればアートである。

一つ一つの個性に合わせ、ハマるところを見つけていく。

一見不出来な作品も、場所や光の当て方、見方、使い方を変えれば、きっとばえる。

一つ一つを大切に、どれも活かしていく。
それぞれの凸凹がカチッと組み合わさる組み合わせを見つけていく。

そんなやり方もあるんじゃないかと、私は思う。

矯正することなく、それぞれのあり方を大切に育て、お互いを助け合えるようにしていく。

そんな教育ができたらいいなぁと思う。

そんな教育を許容する社会であってほしいと思う。


だからもっと学ぶべきことを減らしてくれない?

ついていけない子どもがゆっくり丁寧に学ぶ時間もないのよ!

お偉いさん達は、今まで積み重ねてきたことを崩したくはないと思うけど。
それぞれの教科の偉い人たちが、決して削減したくないのだと思うけど!

現場はなかなかに苦しいよ。
勉強が苦手な子供達も、その子達を一定水準まで到達させなければならない教師達も、どちらもやらされているからみんなヘトヘトよ!
子どもも大人もどちらも義務で動かされているから、そりゃネガティブにもなりますよ。

丁寧に学ぶ時間と余裕を!

たのむで。


これが一番言いたかったことです。


お見苦しいところをお見せしてしまいました。


ここまで読んでくださり大感謝!

そうそう!ほんまそれ!って思われた方、ぜひスキしていただけると嬉しいです!


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