心のほどき方
久しぶりに土曜日の昼下がり。最初に出会った場所はそれぞれ違いますが、一緒にご飯を食べたり昼のみしたりするようになった友達がいます。
友だちと言うとそれぞれの家族の事をたくさん知っているほど仲がいいと言いますが、私たちはそれほど知らないし興味もありません。だからと言って、硬い話をするでもなくただ同じ空気を吸えるその会が心地よいので誰かが集合を掛けます。不思議とそろそろと思う頃にお誘いがあり、私が骨折をして以来なのでもう半年ぶりです。
先に来た人がビールを呑んでいたり、サンドイッチをほうばっていたりと勝手気ままです。待つことをしないのは案外少々の罪悪感はありますが、みんな気にしません。
みんなと言っても4人。年齢もばらばら。その人ごとの考え方ややはり年代も加味して面白いと思える違いがあります。
40歳の医療従事者の彼女は一時は大変な日常を送っていましたが、それも落ち着いて幼稚園児と小学生の子供と日曜日には新しくできた水族館に行くそうです。家族の大切さを身に染みて感じたことと明日はどうなるかわからないという危機感もあり出来るだけ楽しい思い出を作ろうとしています。
30歳後半の女性は今職場で嫌がらせをうけているそうですが、少し前の彼女なら頭から煙?が出そうなくらい憤慨していましたが、今は淡々としています。
60歳の女性は歴史ボランティアを始めて10年。お城やお寺の話が面白くって、彼女から影響を受けて訪れた姫路の書寫山圓教寺に強く感銘を受けて、たまに無性に行きたくなります。
今回は焼き鳥。やはり早く来た一人がビールをすでに飲んでいました。
久しぶりに30歳の悩めるというか合点のいかない様子の彼女の話になりました。かと言って彼女の話にフォーカスするのではなく、嫌な思いをさせられた時どのような態度をとるかと言う話になって…。
まさしくやりかえすのか、許すのか、はたまた無視するのかということになりました。
考えの違う人同士が分かり合えるというのは果たしてあるのでしょうか?どちらも自分は正しいと思っていて譲れないものがあるのでしょう。
私は今まで数えるほどしか人と口げんかをしたことがありません。どちらかと言うと呑みこんでしまう方。でも許すというのではなく時間薬の効き目を待つ方でした。
若い時なら仕返ししたかもと結構乱暴な意見が出ましたが、今はそのエネルギーがもったいないと。
しかし許すとは包容力。そうするために自分の中で自分をなだめたりこれではだめだと自己嫌悪に落ちたりするのには価値が無いというのです。
包容力となるとまだまだ修行が足りませんが「受け入れるとしたら少しは気が休まるのでは?」とさすがな考えも出てどちらがいい悪いではなくその考えが今のそれぞれが立っている場所かもしれません。
最後の無視するとは意地悪な響きがありますが置き換えるとその行動や言動をサラッと受け流すということになるかもしれません。いくらけんかを仕掛けられても反応しなければ向こうも遣り甲斐がなくなるでしょう。
この世の中、白黒で判断できないものが増えてきました。原因はそれぞれの中にあります。本心でないのにその場しのぎの言葉では解決はしませんが、たとえ深く傷ついてもそれを慰めて癒すのも自分自身。
お互いがそれぞれにそれを成長の種と思えるようなおとなになりたいものです。
町は夕暮れ三宮でそれぞれの帰路。
また書寫山の新緑を見たくなりました。
今日もいい日にしましょう!