適応力
賢く見られたい!だって私は優等生でしたから。というオーラを出している。
人の目を気にして、デキル私を見せなくてはと空回り。
きちんと育てられ、教育されていい環境で育ったと思われる女性。
言葉使いや行動はスキがないのですが、ちょっと距離を置いてる感じ。
今まではそれで居心地のいい場所にいたとしても環境が変わって、新しい世界に一人で立ち向かうことになった時、それらの常識がほとんど役に立たないことがあります。自分の常識では考えられない世界にいる人の方が多いということです。ある意味世間知らずだったとかもしれません。
いくら知識や能力があってもその場に溶け込む生活力、順応性が無ければかえって苦しくて悩むことになります。
洗濯機の渦の中に吸い込まれるように「あー--」と言っているうちに這いあがれず、私にはここは合っていないとかみんなの方がおかしい、ありえない!と不平不満が吹きこぼれます。もしくはだんまり。ますますその場で孤立していきます。
誰か助けてー!とはプライドが邪魔して言えない。彼女は救いの手を待っていますが、世間は気付かず関心もなさそうです。
結果は残念なこととなり、落ち込んでその場から姿を消すときも。
そんな人を見ていると知識や教養は自分のために使うものでひけらかすものではないことだとわかります。
「なんだ 言ってくれたらいいのに!何でも知っていると思ってた。」と言われたそうです。
知らないという言葉は彼女の辞書には「言ってはいけない語句」のページだったのでしょう。
本当に知らないなら「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」素直に聞いた方がいいと思います。最初はちょっと勇気がいります。難しいより簡単なことを知らない恥ずかしさ?
よっぽどの優等生でない限りみんなドングリの背比べ。大した差はありません。その隙間のような優劣にこだわるのは無駄なことです。
たずねるとみんな一生懸命教えてくれます。そうなると気が楽になります。優等生の鎧の一部が剥がれるとだんだん楽しくなって、無理して賢いことを言う必要のないことが分かります。
「あほ!」と関西の人は言いますが、馬鹿ではありません。悪口でもありません。ちょっぴり親しみさえも含んでいる言葉です。
どんな環境にもなじんで、明るい人はいろんなことを吸収しようという意欲があります。そんな人はいくつになっても伸びしろのある人です。
私の知り合いにも天然の人がたくさんいます。本当は賢いのに「あほ」なことを言える!とても貴重な仲間です。
今日も「あほ」なこと言って笑ういい日にしましょう!