11/21 雑記 考えのあれこれ1『人は変われる』読了
今回の文フリは、フェミニストのブースがたくさんあったように感じた。これまでもなかったことはないのだと思うけど、かなり目に飛び込んできた。
『82年生まれ、キム・ジヨン』や『僕の狂ったフェミ彼女』など韓国発の小説がヒットしたことも関係しているのだろうか。
ちょうど19日が国際男性デーであったこともあって、新聞には男性の生きづらさについての特集が組まれていた。
ちょうどそれらについて人と話をしたこともあって色々と思い巡らせたことを毎度のごとく思いつくままに書き残していこうと思う。
思いつくままメモなのでこの話どこへ行くんじゃってなると思う。
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『人は変われる』
先ほど高橋和巳さんの『人は変われる』を読み終えた。
途中ややスピリチュアル? な感じもしたのだが、カウンセリングの事例が豊富でクライアントの心の動き、成長がとてもよく見てとれた。
成長段階を一通り経過し大人になったその人が変わる。そこに必要な能力について三つ挙げられている。
1自分から離れる能力(客観視の力)
2絶望できる能力
3純粋性を感じる能力
個人的に私自身絶望がもうひとつ足りないかなと感じてはいるんだけど。
それはそれとして、1、と3の能力は特に揺らぎやすいものだよなと感じた。
心理的余裕を失うと人は退行してしまい、日頃はそれなりにやれていた人も客観視や純粋な感情を認める能力がくもりがちになると思ったからだ。
疲れていると悲観的になるとか逆に妙に攻撃的になるとか、気配りが行き届かなくなるとか、大なり小なり誰しも経験があるでしょう?
状況や相手の気持ち、自分の感情が見えなくなることが。
後でこうしてあげたらよかったと後悔するようなことが。
大人になっても。
これは多分私の信念というかスタンスなのだと思うけど、過ちを犯さない人はいない、ただ責任を取らないで気付けない人がいるだけ、みたいなことをよく思う。
その人のために周囲にできることがあるとしたら「気づき受け止めるためには何が必要かを考えること」だ。責任を取っていけるように。
これは私の日記帳なので、自作を例に取って考えていく。
この話で、発達障害を持つ娘の母夕子は七緒を普通にさせようと脅迫的に努力する。
この時の夕子は心理的余裕を失って退行し自分のしていることが見えなくなっている。
発達障害を持ちかつ、幼児である娘の能力や娘や家族の気持ち、自分の傷つきが見えなくなって、自分の恐怖している状況……娘の将来の不安であったり、周囲の視線の痛さであったり……を打ち消すために「娘を思い通りにしようとする」
この結論「娘を思い通りにしようとする」があまりに無茶で、問題解決に向かってないことは客観的に見て明らかすぎるほど明らか。
その娘は、助けが必要で困っていて(自覚はないが)、相手の要求に応えて満足させる能力なんて持ち合わせていないからね。
障害云々は置いておいても、そもそも子供は大人の支えを必要としている存在だ。大人の不安や恐怖を取り除くために、大人を支えるためにがんばるのは無茶なことなのだという認識を大人は持っていなくてはいけない。
たとえ子供自身が望んでそうしているように見えても。
愛着につけこんで、心から頼り切ってはいけない。
余裕のない夕子には、この当たり前が見えない。
でも、実はそういうことはもう日常のあらゆるところで起こっている。私もあなたもあなたの家族も友人も小さく何らか日々やらかしている。気づいていないだけで。許されているだけで。
「ばぁば(夏希)・じぃじ(達弘)ー夕子・朝子」間、「千秋ー香澄」間に顕著だが、そのほかどの親子関係にもそんなシーンがいくつかある。
そんな時、詩音のように「ばかばぁば」と跳ね返すことができる子供ばかりではない。夕子や香澄や、七緒のように巻き込まれることを許してしまうことは多々ある。奥底に苦い思いを降り積もらせながら。
夕子の事例でいうと非現実的な矛先は「七緒」で彼女を「普通にする」だったが、現実的に闘い獲得すべき場所は「環境」を「変革する」ことだったはず。
周囲の視線に「恐怖」し心理的余裕を失っていたから夕子は、対立を恐れて弱い存在に矛先を向けて気が付かなかった。
このように盲目になり、無茶を求めて躍起になっている人を責めたり毒親だとか人間性が問題とレッテルを貼ったりするのは簡単だ。(むしろ「あの人は自分とは違う」と批判し、切り離さずにはいられないその人自身に、なにか見たくないものがあるんだろうなと私は思うが)
それでもその人の力を信じ「過ちに気づかせ、受け止めさせるためには何が必要かを考え」られたら。そして「自分のしてきたことに向き合い、責任が取れるように支えて」やれたら。って発想をしていたいし、する人たちの中で生きていると私は信じたい。
これは夕子のポジションに夏希や達弘を当てはめても同じことなんだ。
夕子が七緒のためと信じ一所懸命だったように、夏希には夏希の、達弘には達弘の信念がある。一所懸命に盲目となり、自分のしている酷いことに気づけずにここまできただけだ。
自分が酷いことをしてきた、と受け止めるには支えが必要だと私は思っている。だから酷いことを受け止めてきた娘である夕子が何を言おうと夏希たちには届かない。
無意識は知っているのだ。自分が戦うべき相手から逃げ、親にしがみつくほかない子供に自分の恐怖を処理させてきたことを。いくら子供なら当たり前だとか子供のためだと言い聞かせてきていたとしても無意識は、都合よく扱ってきたと知っている。責められるべきことがあると知っている。
だから突きつけられたら防衛する。理論で正当化する。あなたのためにと正当化する。あなたはおかしいとはねつける。
こうするしかなかった、これでよかった、他にどうしようもなかった、私なりに一所懸命だったと言い訳する。
覚えてないと覆い隠す。そうしてコントロールしてきたことを、何もかもを知っているその子の前でだけは、絶対に認められないと頑なになる。
この構えを覆すのは子供である当事者には困難だと私は思う。無意識が警戒をして防衛してしまうのだから。だから夕子は絶望しなくてはならない。
親には親の事情があって私を受け止めることができなかったと絶望し、親に受け止めてもらうことを望んでいた私を認め自分で受け止める。
こうして望みを絶って初めて、自分がずっと止まり続けていたことに気づき、「自然と」歩き出すことができる。
道を誤った夕子が気づきを得、支えを得たのは周囲の大人たちから。共感によって。責められることではなく、あなたにもできるよと支えられることによってだった。
だから、夏希や達弘にもその時が訪れるとしたら、防衛しなくても大丈夫だと思えた時だと私は思っている。
それまではずっと苦しみの中に止まり続ける。感情的反応に振り回されなから防衛し続ける。
このような悲しいものが毒親と言われるものなんじゃないかと私は思う。
『人は変われる』には夕子たちとはまた違うすれ違い親子の絶望の道のりが描かれる。幼い頃に感情を麻痺させて生きてきた親が、幼い子供のもつその感情に気がつかず必要に応えられないというパターンだ。
この親は自分の世界を子供に押し付け、思い通りにして満足を得、子どもも満足しているものだと思い込んでいた。そして成長した子どもが爆発しても、「子供が問題」と途方に暮れる。自分のしてきたことに気づけない。
こうして私たちには気がつかないでいることがおそらくめちゃくちゃあって。だからこそ相手の言葉や行動に耳を傾けられるように準備をしなくてはいけない。
詩音が「ばかばぁば」といった時、謙虚にその思いに耳を傾けられたら、その時の自分の心の動き(防衛して感情的な反応をしたね?)を観察し受けとめられれば、ばぁばは変われる。
フェミニズムや男性問題について考えるときも、夕子が七緒にしたような非現実的な矛先違いがおきていないかを整理する必要があると思うんだ。そして巻き込まれている人、そして巻き込んでいる人が何をしているかに「気づき受け止めるためには何が必要かを考えること」が。
また「幼い頃に感情を麻痺させて生きてきた分、自分の世界を相手に押し付けて満足していると思い込む」なども男性のいきづらさ問題には大いに関係がありそうだと私は思う。
あんまり求められている話題ではないなーって自覚はあるんだけど、自分が今満足するまで追いたいテーマなのかなーと思うのでとりあえずザクザク書き進めます。
私がフェミニスト問題、男性の生きづらさ問題に興味を持つのは、それがひいては子供に影響が出るからというのが大きい。つまり毒親研究の延長なんだな。
ではおやすみなさい。