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4/8 フェミニズムについて考えることは、男性の生きづらさを考えることとつながっている

 フェミニズムについて考えることは、男性の生きづらさを考えることとつながっている。
 それは障害児が生活・学習しやすい教示方法や環境を考え、整えることが同時に、本当はさまざまなニードを持っていた子供達を見て応えることになるのと同じだ。
 高橋和巳先生の本で精神の病に苦しむの患者の心を知ることが、健康な我々の心を理解することにつながったように。

 マイノリティである前者を尊重するとマジョリティである後者に負担が生じるのではない。目を向けてもらえないわけでもない。
 弱い相手に「手を差し伸べる(力を貸す、助けてやる)」というよりは、違うことによって困っている「その人自身を力づける。彼らを含んだシステム、ルール、ツールに改変する。枠組みを変えていくことでありのままでできる方法を探る。互いに違う相手を知り、思いやるということを理解する。ともに考える」ことで自分とは違う相手の存在を認め、敬意を払い、包含する社会に意識を作り変えるイメージ。
 それは後者の意識をこそアップデートする。発見が多いのは多分後者の方。より多く解放され、生きやすくなるのはきっと後者の方だ。


 健康で強くて成熟したものが力の釣り合う互いのみを相手にして作ってきたのが今の社会で、男たちはそこで戦うように仕向けられてきた。
 戦えないものはお荷物として扱われる。排除される。あまりに大きく開くと尊重すらされなくなる。偶像や役割、いろんなものを押し付けられもする。

 だから最も身近な違いをもつ相手であった女性はまず「男同様に働けますか?」と問われた。我々と同じことができるのでなければ戦えるとは認めないということだ。
 その社会では男とは違う生理、妊娠、出産はお荷物だった。多くの男にとっての性的な対象が戦いの場にいるのがその社会にとって不都合だった。
 「それだから女は使えない」と相手の生得的特徴を理由として(責任を女に押し付けて)排除しても(相手を尊重しなくても)許されると思ってきた。その社会は。

 そのかわりあなたに「相応しい役割がありますよ」とその社会は提示した。
 「嫁(夫の家族に加わったもの)」「良妻賢母」「母性」のあるもの。
 生理、妊娠、出産、母乳が出て、男性のための性的な対象となる身体を持つ女性は、家のために尽くすことこそ相応しい。
 つまり女性はその人自身のためではなく、誰かのために存在しているべきなのだと、そこからはみ出すことはすべきではないのだと、これもまた相手の生得的特徴を理由に理屈をつけた。
 理想像を作り、評価し、恥の感情を巧みに使って、女性自身にその価値観を内面化させ、競い合わせるように仕向ける。
 そうすれば内面化した女性自身が新しい女性にあるべき姿を刷り込んでくれる。支配の完成だ。

 このように、違う相手を尊重しないことによって回っている社会のありかたはおかしいよ、と我々の意識に働きかけてくれるもの。それがフェミニズムだ。


 フェミニズムを実現し、社会が変わると何が起きるのか。私はそれによって男性の生きづらさこそ改善されると思っている。

 なぜなら今の「健康で強くて成熟したものが力の釣り合う互いのみを相手にして作ってきた社会」では、男たちは「老い、傷つき、健康を失う」ことを必要以上に恐れなくてはならないからだ。
 社会に必要とされる「力がない」ことを自分の価値のなさに結びつけなくてはならなかったからだ。
 男性はこの社会がどんな私をも尊重し包含し抱えてくれる存在ではないことを身をもって知っている。
 この社会は、優秀で人間的魅力に溢れる健康な女性の自分を生きたいという希望でさえ、ただ女であることを理由に「生理・妊娠・出産・育児、そして性的存在として社会に迷惑をかけてごめんなさい」と罪悪感を抱かせ踏み躙ってきたのだから。

 男は排除した女とは違う価値を持っていなくてはならない。その社会の求めるような男性像「強く・弱音を吐かない・家族のリーダーを期待される」(有害な男性性)を背負い込まなくてはならなかった。
 そしてそれは同時に、社会から排除された女性が、男性の意識の中で「強く・弱音を吐かず・リーダーとなれる」存在にははなれない弱い、劣った存在に貶められることでもあった。
 またこれが自分が背負いこまされたものを免除されている存在として、女性が妬まれることにもつながった(ミソジニー)。
 こうして女性は生きづらい男性にとっての憎しみの対象となる。

 男性像を背負い込ませたのは女性ではなくその社会なのに、その社会を憎み戦うことはとてもできないから、惨めな気持ちを感じたくない男性は社会への憎しみを抑圧し、女性に向ける。
 女性はずるいんだ。楽しているんだ。と思い込む。そしてその貢献も家事くらい、育児くらい、介護くらい当然だ。と矮小化する。
 これは誰にでもどこででも起こっているありふれた人の心理だ。

 例えば上司にサンドバッグにされたむしゃくしゃを部下に難癖つけることで発散する、だってあいつができないから。姑にされた嫌がらせを指摘できず娘に手伝いもしないでと当たってしまう、だって娘が遊び呆けているから。先生に理不尽に叱られた腹いせに帰宅後弟に意地悪をしてしまう、だってずっと家にいてずるいから。など枚挙にいとまがない。
 そしてその多くが自分のしていることがいちゃもん付けや八つ当たりだと自覚できず、当人は本当に相手(部下や娘、弟そして女性)が悪いと信じている。
 サンドバッグと難癖に繋がりがあるとすら気づいていないかもしれない。だから自分は悪くない、相手に問題があると譲らない。それくらいされて当然なのだと。
 人に指摘されても認めることができない。それは惨めさを感じ、それを与えた圧倒的に強い相手(上司や姑、先生そして男はこうあるべきを押し付けるあの社会)と向き合わなくてはならなくなるのが嫌だから。

 やられた側は何も知らずに「自分が悪い」と思い込んでいるかもしれない。けれど知れば「ずるい、臆病者」となじりたくなるだろう。その権利もある。立ち向かうことで「自分には」矛先が向かなくなるかも知れない。
 しかしそのずるく臆病な心は、自分が悪いのだと背負い込んでくれて、立ち向かわない相手を探して繰り返す。
 支配のど真ん中で「(女性なら・娘なら)それくらい受け止めてあげるべき」と内面化した人に守られて、矛先違いの相手を憎み蔑んだまま、あの社会の継続に力を貸してしまうかも知れない。

 だから私たちは誰しもフェミニズムを学び、何が起きているのかを理解しなければいけない。そして自分が日々本当に何をしているのかを知らなくてはいけない。
 あるべき女性像を内面化した女性も、あるべき男性像を求められることに苦しみ矛先違いをしている男性も。フェミニズムがだれしもに大きく関わる問題なのだと理解すれば連帯することができる。

 傷つき矛先違いをしてきたものをこそ勇気付ける。あなたは惨めじゃない。あなたは相手と向き合える。自分のために戦える。その力がある。
 あの社会という同じ敵を持つ、生きづらさを感じそれを女性のせいだと怒る男性や、女の子なんだからと押し付けてきた女性と、わたしたちは、本当は共に戦うことができるはずなんだ。


 もしフェミニズムによって「健康でも強くも成熟してもない彼らを含んだシステム、ルール、ツールに改変する。枠組みを変えていくことでありのままでできる方法を探る。互いに違う相手を知り、思いやるということを理解する。ともに考える」社会が実現したなら、「老い、傷つき、健康を失う」ことが社会に必要とされる「力がない」ことを意味しなくなる。
 現在の自分そのままでできる働き方・あり方を作り出すことが当たり前だと受け止められる。変わっていく私を受け止めることを支えられ、そして尊重される。あの社会にとって利益のあった有害な男性性が否定される。フェミニズムによって女性も男性も解放される。
 多様な相手を尊重することがきっとできるようになる。

 だから老若男女、障害を持つもの、持たないもの、皆にとってフェミニズムの理解と実現は自分ごと、自分のための運動であると私は思っている。

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