『親は選べないが人生は選べる』 高橋 和巳
高橋和巳先生の新しい本が出たということで購入。
この頃私が感じているのは、たとえ本人がどのように行動したいと願おうと、まず安心を感じられなければ冒険に踏み出すことはできないんだなという諦めにも似た気持ちだった。
この諦めにまずは立つことができないと、つまり動けない自分自身を認めることができないと、理想の自分を手放せないと、自分自身を鞭打ったり、環境や誰か別の相手のせいにして自己憐憫に陥ったりしてしまうことになる。
鞭打つことも自己憐憫も、真に問題と向き合うことを避け、人生を停滞させていることに他ならない。
とはいえ、自分が嫌いで仕方がないと嘆く人も、毒親が悪い、夫が、子供が、上司が等々人にしがみつく人も好きでそうしているわけじゃない。わざわざのらりくらりと停滞していようとしているわけじゃない。
必要なのはそんな私の痛みを蔑むことなく慈しむことなんだろう。それがどういうことなのか言葉だけでなく感覚することができるまで、諦めずに。
私が考えたいのは人生を停滞させることをやめること。冒険に踏み出せない私を認めた後、そこから何をすればいいのかということだ。
文中の「心の傷とは愛されたいという気持ちを否定してしまうこと」という言葉にどきりとした。それは全く私自身のことだったからだ。
幼い頃に「私には生まれながら愛されるための魅力が備わっていない」と理解したことを覚えている。この理解は私にとってとても重要で、だから自由だったのでもあった。というのは、いつも自分を蚊帳の外に置けたからだ。誰に認めてもらわなくても良くなるからだ。
理解する前のように他の誰に与えられても私には与えられないことを憎まずに済む。当然だから。
私が何を感じていようと重要じゃない、物事は私以外の誰かたちの意思によってきまっていく、という扱いに無頓着でいられる。当然だから。
「私は愛されない存在である」という理解、ひいては「愛されようとは思わない」「愛されるとは信じない」ことが私を守ってきたのだった。
だから善意が何より怖かったのだし、愛は欲望と置き換えないと理解できなかった。片隅にいていいということ、そこにあるということを認識してただ置いといてくれているということが、私にとって受け入れやすい、安心できるサイズの愛だった。
人からは卑屈という言葉をよく投げられたし、粗末な扱いを許すなと怒られたこともあったけれど、私は指摘されるまで、指摘されてもよくわからなくて困惑していた。
私は自分をカウントしないで物事を考えた。自分の周囲が平和で満足していたら、私は安全で平和だと思っていたからだ。粗末な扱いをするように仕向けていたのは自分自身だった。
遠くまできたようで、私はこの場所からまだ一歩も出ていないのだ。
自分を蚊帳の外に置く戦略は今でも私のもので、それが私の安全を守っている。愛されなかったことに傷つきたくないから、最初からないものだと受け取るための手を切り落としておくことが私の平和だった。
できない理由をつけて逃れるのが私の人生の癖だ。わざとじゃない。学校に行きたくなくて嘔吐する子供と同じ。本人が一番困惑し、もどかしく感じている。
そこから出るためにはやはり安心が必要なのだ。「心理が発達するのはもっともっと安心したいから」と高橋先生は言う。
自分を守ってきたものを手放すのは安心とは真逆なのだから、滞ってしまうのも当然なのだ。
本人そして周囲にその理解がなければ、「なんとかしてあげよう」として病気は嘘だと罵り、鞭打って学校にやるみたいなことになってしまう。
結果、従ったとしてもその子供は心の中でその罵りや鞭打ちを自ら行って、自分の気持ちやニードを否定するようになるだろう。
「心の傷とは愛されたいという気持ちを否定してしまうこと」つまり自分の気持ちを否定する、傷ついていることを認めることができない自己欺瞞が「心の傷」となる。
目を向けるべきは愛されなかったことそのものではない。愛されなかった、受け止められなかったと言う現実に対して幼い自身が何をすると決めたかだ。
『何が私をこうさせたか――獄中手記』の金子文子のように「愛さなかった相手がひどい(私は愛され認められるべき存在だ)」と自身の傷つきを受け止められればよかった。
『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』のタラは、いいように支配され、肝心のところで見捨てられ、危険に向かって差し出されている現実に目を背け「生き延びようとして(愛されようとしてと言う段階にもないかもしれない)自分の感情を無視した(自己欺瞞)」そのため記憶の曖昧さを抱え自分を信じることに苦労した。
「欠けている私が愛されないのは当然だ」と理由をつけて愛されなくても認められなくても当然でしかない(いらない)と自分のニードを無視した(自己欺瞞)私は人生を停滞させている。
自己欺瞞によって、受け止めうる傷つきだったものを受け止めきれない、存在を認めることもできないものにしてしまう。それが人生を停滞させてどうやって動き出せばいいかわからない状態を生み出してしまう。
まずは当時の私が何を決断したのかを見つけ、自己欺瞞を手放し、傷つきを認めること。ニードを認めることが第一段階。それから安心できる範囲でニードを表現していくこと。少しずつスモールステップで広げていく。
どの段階も簡単ではない。「心理が発達するのはもっともっと安心したいから」という理解を、回復を焦る当事者も周囲も持っていられたら、誤って傷を深くすることも減らせるのではないかと思った。
今回も本の感想というよりは自分用メモだね。
ほんとはもっといろんなことを書いてました。