8/8 『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザー2』
ゴッドファーザーといえばあのテーマソング。小学生の頃、授業でオルゴールケースの制作をしたのですが、そこで私はその曲を選びました。
映画をみたことはなかったのだけれど。
『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザー2』
あらすじはこちら。
解説部分も面白いのですが、ストーリー紹介部分までであれば、まだみていない人でもネタバレがないので安心です。
主人公はコルレオーネファミリーに生まれ、ただ一人カタギの道を選んだマイケル。マイケルの父ヴィトはゴッドファーザーと呼ばれるマフィアのボスです。
ヴィトには長男ソニー(跡取り)、養子のトム(相談役)、次男フレド(ミソッカス扱い)、三男マイケル(軍人を経て大学へ復学)、長女のコニーと五人の子供たちがいます。
それからファミリー(仲間)に加えてもらえず不満を抱いている、長女の夫のカルロ。マフィアの家柄であっても真っ当に生きようとするマイケルを信じる恋人ケイ(学友。のちに結婚)。このあたりが最初に理解しておくべき血縁関係です。
子どもの頃に家族を皆殺しにされたヴィトは「家族」への想いが人一倍強い人物です。血縁のみならず、仲間もひとつのファミリーとみなし、なにより大切にします。ファミリーに選ばれるのは、ヴィトをゴッドファーザーと慕い、忠誠を誓った者だけです。
ヴィトは懐いてくるものをこよなく愛し、愛するものを害する”敵”には容赦なく牙を剥きます。
”敵”とみなせば誰であれ、手段を選ばず、脅し、命を奪うことも躊躇しない。怖い人ですね。
一作目は、ある男から麻薬売買に手を貸すよう頼まれたヴィトが、協力を拒む事で物語が動き出します。
”敵”の人生は平然と奪うのに、麻薬で不特定多数の人生を損なうことには躊躇する。不思議な感じがしますが、ヴィトにとっては仲間や自分を無碍にしたり、逆らったりするものが制裁を加えるべき悪。関わりすらない人間を巻き込む麻薬売買は彼の正義に反するのです。非道な彼にも彼なりに筋の通った倫理があるわけです。
そんなヴィトの潔癖さが、麻薬に手を染めているファミリーは面白くない。ヴィトのファミリーの中にも周囲が麻薬に手をつけ始めた今、もう昔ながらのやり方ではやっていけないのではないか? 麻薬売買すべきだと言う者が現れます。
人間関係の揺らぐ中、ゴッドファーザーヴィトは銃撃され重傷を負うに至ります。
マフィアとは無縁の世界で生きていきたいと願い、ファミリーとは距離をとっていた主人公マイケルは、重傷を負った父を前に180度行動を転換します。
単身病床のヴィトを訪ね「暗殺から父を守る」と誓うのです。二人の演技には心動かされてしまいます。
マフィアを嫌悪していたはずのマイケルの内側に、家族に対する並々ならぬ想いが満ちていると感じられるからでしょうか。
ヴィトは、ファミリーを嫌うマイケルに、自分とは違う道を歩んでほしいと願っていました。自分にもあり得たかもしれない人生を、映し出していたのかもしれません。重症のヴィトは、自分のために身を危険に晒すマイケルを見て、涙を流します。
ヴィトは決して良い人間ではありません。犯罪に対して罪の意識を抱きません。敵と見做した人間には残酷な仕打ちも平気です。殺人も辞さない。
けれど自分を頼ってきた人間、仲間、何より家族には惜しみなく愛情を注ぎました。
それは彼が幼少期に彼を大切に育んでくれた家族を持っていたこと、幼いヴィトを命懸けで守り、逃亡の手引きをしてくれた人がいたこと。逃亡先でも人の恩を受け生き延びてきたこと。それらが、彼の心に深く刻まれていたからではないでしょうか。
ファミリーは、なによりも尊い。大切にしなくてはならない。
そんなヴィトが身内を失った悲しみに震える姿、ファミリーの中に裏切り者がいるのではと疑心暗鬼になる姿を見るのは胸が痛みます。
ヴィトの姿を見ていると、ドライなマイケルが父のために非情になる決意をし、自らマフィアの道に飛び込んだ思いがわかるような気がします。
父のようにはならないと言っていたマイケルは、父の代わりに生きようとする。愛する父のために、誰より父のようにあろうとするのです。
私はふと思います。マイケル自身の人生はどこに行ってしまったのかと。死んだ父の心を探り、父をなぞっても父にはなれないのに。
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見る人は誰しも、暴力で人をコントロールし、犯罪に手を染めてなお、罪悪感どころか有用感を感じているコルレオーネファミリーを肯定することはできません。
けれどヴィトをはじめマイケル、ソニー、トムら、登場する一人一人にきっと愛着を持ちます。愛着と共に、どこか一般とはかけ離れていると感じ不安も感じます。ケイがマイケルの本当の姿はどこにあるのかと疑問を抱くように。
極端な表現ですが、それはファミリーにとっては自分達だけが人間だからではないでしょうか。
他者の自由を自分の許可する範囲でしか認めることができず、外れると途端に非情にな仕打ちができる。それは仲間ではなくなった相手を人間とみなさなくなるから。
不都合な相手は躊躇なく消せてしまう。命を奪えてしまう。自らが神であるかのように裁きを下せてしまう。
敵か味方かの世界で生きている彼らには、自分とは違う相手を尊重するための場所が欠落しているように思えます。
忌避していた麻薬の売買を「黒人相手であれば構わない」と言い放つシーンがあります。その一言で、黒人は人間扱いされていなかったのがわかります。彼らになら何が起きても構わない。当たり前のように飛び出す差別意識に、そら寒い気持ちになりました。時代の意識として、集団の意識として、それが当たり前だったからこそ、そのような発言が飛び出すのでしょう。
彼らにとって女性も人間ではありません。マフィアは「男」ばかりのホモソーシャルな世界で、女性は「仕事に口を出すな」と阻害されています。
ケイがマイケルに「人を殺したのではないか」と尋ねるシーンで、マイケルは怒鳴ることでケイの口を塞ごうとします。威圧し、口を出すなと言った後「特別に教えてやる」などと対等ではありえない扱いをする。
ケイはマイケルの妻になっていましたが、とてもパートナーと言える関係ではないのです。
罪悪感を突かれて余裕を無くしていただけだ、相手が女だからではない、と思う人もあるかもしれないが、私はマイケルの中には「男」だけが人間だという意識があるのだと感じました。
マイケルは女相手には敵や黒人に向ける非情さを向けたりはしません。代わりに、重要な場所から阻害し、愛らしく家庭的であることを望み、子供同様に守るべき存在でいることを要求します。そこからはみ出そうとすると途端に「何様だ」と機嫌を悪くする。これは全く対等ではない態度です。
ヴィトは何度も三人の息子の人生を思い描きましたが、娘には期待を持たなかったと思われます。末っ子だったためか、息子たちと違って描かれてもいませんが、子供の頃からコニーはただ可愛がるだけの存在だったのではないでしょうか。
また、無惨に亡くなった身内の遺体を綺麗にしてくれと頼む時、ヴィトは「母親が耐えられないから」と口にします。本当に耐え難いのはヴィト自身です。弱い感情を自分のものとして感じることができず、それを女に属するのものとして処理しようとする。それもホモソーシャルの世界ではよくあることではないでしょうか。
女は一段下にいる、弱く守るべき存在、可愛がるための存在。対等な相手としてはカウントしない。
彼らが弱い部分を女に属するものとし、社会から女を阻害するとき、同時に自分自身から弱さを排除し、可愛らしさを排除し、守られたい気持ちを拒否しています。こうしてありのままの自分の感情を否認することは、男性自身を苦しめることにもなると私は思います。
ヴィトが「男」と口にするたび、またマイケルが失われたケイのお腹の子が「男」だったかどうか執拗に尋ねるシーンから、「男」である=我々のファミリー、仲間である、対等な、同質の相手として自分をわかってもらえると期待できる存在である、女はそうではないという意識が伺えます。
私はそれを「男の美学」として扱ってはならないと感じます。阻害され押し付けられる女性だけではなく、自分自身から特定の感情を阻害し、自分自身であることを認められない男性自身をも苦しませるものだからです。誰にとっても良い結果を生まない。
この物語が、かつて、男性が男性たちによって持たされていた苦しみについての話としてひきつがれていくといいと思っています。
思いつくままに書いたのでまとまりがありませんがここで終わりとします。(私は一体本当に人に伝わるように書く気があるのか? という疑問をスルーしつつ)
また近いうちに晩年のマイケルを描いた三作目を見ようと思います。