中学浪人を経験した教育研究者の個人的回想(1)
このnoteは、ちょうど平成に入る35年ほど前に、高校受験に失敗して一年間浪人生を送った筆者が、改めてその記録を残すものである。元になっている記事があり、筆者のブログのエントリ(http://nikata.cocolog-nifty.com/diary/)の「中浪なれど波高し」を再録・再構成したものである。基本的に個人的回想だが、noteに再録するにあたり、若干の加筆・修正を行うことにした。
昭和47年生まれの荷方は、高校生以降48年生まれとして青春を送っている。なぜかというと中学を4年やって高校に入ったから。15にして半プータローをやってしまったのだが、いろんな意味でその後の自分に影響を与えている。そもそもなぜこんなダメダメの男が、心理学とか教育とか叫びながらここまで来てしまったのか。劇的でも立派でもないのだが、恥を忍んでつづってみようかと思う。そしてそれは、日本にわずかながらも存在する、「中学浪人」についての記録を残そうというものである。
まずはなぜそういう事になったのか、中学生までのことについて触れておきたい。
熊本、それも金峰山の麓という農村地帯で生まれた私は、なぜか地元の中学には行かず、10キロも離れた国立の中学に通った。理由は地元の中学校に母親が音楽の先生で在職していたから。「おまえは変わった子だから、親が先生ともなればいじめられかねない」という理由で、別の中学を勧められたのだ。まあ田舎のことなので、試験も「お受験」などという大変なものではなく、そこそこ点数がとれれば良かった。田舎の小学校のちょっとできる子が何とこさ受かったといった方が正しいだろう。
地方の国立中学校、都市圏のように超エリート校ということもなく、さりとてグレた生徒もいるわけでない。そこそこ「いいとこの子」の多いのんびりした学校だった。それでもみんなそこそこに勉強はできるわけで、塾にも行かず、家庭学習も大してしない私は社会だけがトップクラスのボンクラ。社会や理科、国語ができるので真ん中くらいにいられるのだが、数学と英語だけだったらたちまちクラスの底辺層まで落ち込む有様だった。
それでも3年生になり、受験となる。地方の教育学部の附属中学校には付属高校がない。大抵の場合は地元の公立進学校にすすむというのが一般的だ。
我が家にはなぜか高校受験のお約束があった。それは
「私立はお金がかかるから受験不可、,そのかわり公立高校ならどこを受けても良い」
つまり,公立なら自分の身の丈にあった学校で文句は言わないよということ。別の見方をすれば、私立に保険をかけるようなまねは許さん!といったところだろうか。
とはいえ中学の半分くらいが1番手の高校に進学するわけで、自分だって行きたくないわけではない。そもそも2番手は遠いし、二人の兄が通ったので何となく自分だけは違うところへ行きたかったし。まあ5分5分くらいの可能性があったということで、果敢に受験したというわけである。
しかしこれがマズかった。本番でいきなり失敗。あろうことか得意の国語ですら大ブレーキ。得点は全部で85%位と言うところにとどまった。それでも、ボーダーラインで何とかいきそうなくらいの点数だったのだが,このとき思わぬ悲劇が襲う。
そう、進学校に行くと思わぬ足かせがある。当時の成績評価は今と違って絶対評価ではなく相対評価、普通の中学ならそれでもクラスの中ではいいところに位置していて、内申点も稼げる。しかし、附属中はそもそもみんなの成績もある程度あるので、ちょっとでも成績が悪いと通知表の評点は2や3になってしまう。入試の点数が当落線上の成績だと、この内申の悪さが思いっきり足を引っ張る(特に当時の熊本の方式は)。
その時の受験番号は、忘れもしない376。「みな無(376)理だ、オレだけ合格」くらいに冗談を言っていたが、無理だったのは自分だけという笑えないオチが付いてしまった。合格発表で376番のところを目が行ったり来たりするそのさまは,実に悲しかった。
その時点で、私はどの高校にも行くことはできなくなり、当時としても珍しい「中学浪人」になることが確定した。合格発表についてきた母親に、高校から1キロほど離れた木造のオンボロ建物まで連れて行かれた。
建物には「高校大学予備校,松楠塾」とある。ここがこれからの話の舞台,全日制高校予備校への申し込みである。実際には後日「入学試験」なるものがあるのだが,もちろんフリーパスな訳であって,この日から「中浪」ニカタが登場することになる。
不合格が決まってから30分もしないうちに予備校へ。母親は中学校の先生とはいえ、動きが速くないか?
実は我が家がここにお世話になるのは、これが初めてではない。複数居る兄弟の一人は、やはり中浪を経験している。つまり、お得意様。
その当時の熊本は中浪も決して珍しくはなかった。我が松楠塾は30人2クラス、その他にも3つばかりあって、県内でも悠に100人くらいはいたのだ。今と違って、第2次ベビーブーム。受験に対する圧力も決して弱くはなかった。その証拠に、進学校である我が母校から、私以外にも入学してきた「友人」もいて、前例にないと驚かれたくらいだったから。
私の配属は1組。2組には10名弱の女の子がいるのだが、こちらは野郎ばかり30人の男所帯。何より驚いたのは、そのメンツである。多くは「公立も私立も落っこちた」タイプの面々なので、みんなすごいのよ...思いっきり気合いの入った学ラン着てるやつとか、アイパー(アイロンパーマ、リーゼントとかで使うアレです)きっちりかかっているのとか。クラスは各学校対抗ヤンキー選手権の様相。
たった5分しかない休み時間に何人かいなくなったかと思うと、おもいっきり殴り合ったらしく、唇を切ったりして帰ってくる。授業中でもちょっとしたことでつかみ合いがあったりする。
先生も慣れたもので、屈強そうな2人の間に入ってねじ伏せる。本当は若くても50越えていただろうこの先生たちが一番強いのも驚きだった。こういうときはさすがに近寄れない。
そういうときは、同じく進学校に落ちた、「クラスで2人の成績優秀者」のひとりY君と一緒に、黙々と問題を解いてやり過ごす。そうすれば授業に戻ったとき、問題の解答に答える役を買って出て授業を軌道に戻せるし。
実際にはみんなが喧嘩腰だったのは、最初の2月ほど。要は本当に「誰が主導するか」で揉めてたのね。後になればそれはそれで落ち着いたクラスではあった。ただし、この数ヶ月で居づらくなったり、本当に勉強ができなかったりで辞めていった生徒も何人かいたので、それはそれでバトルロワイヤルだったのだけど。
今の学校とはちょっと違う雰囲気。今の荒れた学校といえば「学級崩壊・不登校」なのだけれど、当時は「ヤンキー」。陰湿というよりは、まだまだハデに振る舞う方が多かった。何があっても、先生に叱られると素直に引き下がるようなところもあったし。本当にキレて手がつけられないことはなかったみたい。それなりに「加減」というものを知っていた彼らだった。
Y君と私は周りからも「別扱い」だったらしく、それなりに「加減」された扱いを受けていた。それでもムッとさせるようなこともあって、思いっきり詰め寄られたり、一発食らったりは受けた。
でも分かったこと、「いざこざは、みんなの前でするべし、たとえ勝っても負けても、周りはちゃんと評価する」。ケンカに勝っても、無茶なやつはそれで株は落ちる。負けてもスジの通ったやつは、むしろ逃げなかったと言われる。結構浪花節の世界だな。うん。
そんなこんなで、とにかく30人の野郎どもは「お勉強」なるものをすることになったのだ。
(今回のひとこと)
・進学校は,内申書をつくるときには不利(当時は)。
・精神的に弱い子は,私立に合格させておいた方が良いかもしれない。
・ケンカは正々堂々と、勝敗はまわりがきめてくれる