中学浪人を経験した教育研究者の個人的回想(3) ー中学浪人生の日常生活ー
前回(第2回)のエントリは https://note.com/nikata920/n/n7a7f227d69f2
第1回は https://note.com/nikata920/n/n7b898ebe83b6
高校生でもなく、さりとて中学生でもない中学浪人。15・6歳の若い子はどういう一年間を過ごすのか。
4月といえばまだまだお互い探りながら進んでいたし,勉強のやり方のペースも模索しながらということもあって,それはそれはあっという間にすぎてしまう。本格的な浪人は5月からといったところか。この慣れた時期が非常に重要な時期の1つであると私は思った。とにかく,「気が遠くなる」のである。
前回に出てきたように,友人たちは高校生で,彼らのことを思えば羨ましさが募る。さりとて自分は浪人の身,本当の高校生になるのはまだ本当に先のこと。この調子でずっと続けて行かなくてはならないかと思うと,腐りそうになるのも致し方ないというものである。実際にこのころからぐっと腐っていくものもいて,それは大体夏休みを過ぎる頃にはあらかた塾からいなくなってしまう。幸い私には兄というモデルがいたこと,予備校の友人たちと結構仲良くやっていたこと。家族の理解もあったことなど,結局のところ「来年はいいところで受からないと格好悪いもんね」の思いでなんとかなってしまった。見栄というのも重要なエネルギーである。
さて,夏になるとこれがまた大変である。松楠塾は旧熊本薬専(熊大薬学部の前身)の校舎である。古くて暑いのである。これで8月の初旬まで授業があり,下旬には再開する。暑いのはどうにもならなかった。数学のMはこういう時には実に楽しい人で,「最後の一線を越えなければOK」。つまり,トランクス(アンダーウェア)さえ脱がなければ何をしても良い,ということになっていた。さすがに下一枚で授業を受けるものもいなかったが,みんな結構「脱いで」いた。うちのクラスは男子だけ,というのも良かったのだろうが,こういうのは若さあってのこと。
みんながどうだったのかは定かではないし,大多数はそれほど勉強していたわけでもないのだろうが,私はといえばその夏猛烈に勉強した。夏休みの2週間さえ,1日8時間は問題集に没頭した。そろそろ公立レベルの問題にミスをすることはなくなり,当時文英堂から出ていたΣベストの「最高水準問題集」を片っ端から解いた。ラサール,慶応,学芸大付属,とにかく難しかった。これが解けるようになった,というか問題のパターンを覚えてしまったのは,全くもって継続の産物である。
解けるようになったのが嬉しかったという訳でもなかった。私は密かに,これらの学校への進学を夢見ていた。このころの私は,プロの音楽家になる夢でいっぱいだったのだ。東京へ行けば,きっと一流の音楽にもふれられる,バンド活動もできる,うまくいけばプロの指導も受けられるかもしれない。国立の付属なら,ひょっとすると許されるかも。その淡い期待をもちながら勉強したのである。筑波大付属,駒場,学芸大付属,国立の付属の問題を目の前にすると心が動いた。解いてみせる。
実際のところ,それはちょっと虫の良い希望だったし,現実的には難しいということでやがて現実的な選択になったのだが,そういう淡い夢が勉強することのモチベーションになったことは確かである。本当に行ったとしても,徹底して勉学をする生徒たちについて行けなかっただろうし,音楽どころではなかっただろうことを考えると。実際にはもっとのびのびした地元の高校に行ったのは,その後の私にも,今音楽を嗜む身としても良かったのだが。
9月のまだ暑かったとき,たった1日みんなでバスに乗り,阿蘇に行った。台風が近かったか何かで,曇っていて,風の強い1日だったが,これがハイキングだった。まだ15歳の子供たち,たまには息抜きもというところだったのだろう。何をしたわけでもないが,記憶にだけは残っている。今私の手元にその時の写真があって,いっぱしツッパった格好で写っていたりする。
このころから冬にかけてというのは,そろそろ受験が見えてきたこともあって,わりと淡々と勉強に勤しんでいたように思う。10月をすぎれば面談が始まり,志望校のチェックも始まる。11月になれば,さすがに気持ちも「高校生に手が届く」ようになる。成績上位の子でなくとも,おのずと顔に真剣みが出てくる。みんなそれなりに一年分の何かを取り返したいのだ。
このころ私は,たった1度だが試験の首位を隣のクラスのO君に奪われる。相手もかなりの力だし,それほどダメージを受けたわけでもなかったのだが,クラスの一人からそれをからかわれたのはひどくこたえた,今で言えば「ムカついた」というところか。結果的はこういう小さなことがさらなるモチベーションとなって,徹底した見直しと検算に裏付けられた答案作りになっていったのである。今思えば随分「燃える闘魂」の浪人生である。その向こう気の強さは,勉学にはプラスになることが多い。
それなりに勉強に明け暮れたといっても,たかだか15・6歳。遊ばなくては生きていけない。楽しいのは音楽,ピアノのレッスンを続けることは私も家族も同意,1年間の浪人生活で,勉強以外に唯一ちゃんと取り組んだ活動であった。
要は中学の頃と大して変わらない生活なのだが,割とストイックだった私,それでは何だか自分に厳しくないような気がしてならない。そこで打ち出した「浪人ペナルティ」。1年間新規のCD(あるいはレコード)のレンタルをしない。というものだった。考えてみればなぜそういうことをしようと思ったか,いちいち無意味なのだが。そのころはまだバブル以前の日本を色濃く残していて,おこづかいを我慢するとか,マンガ断ちをするとか,部活の間は水を飲ませないとか,そういう精神論的なことがたくさんあったのかもしれない。で,自分の一番の楽しみを我慢しようと思ったというのが真相である。
友人関係も,ごくごく予備校の中で限られていた。といっっても自転車で一緒に帰る程度のもの。おまけに多くの生徒は自分と反対方向で,そのメンツも1人か2人だった。たまに寄り道して仲間の家に寄るのだが,大体どの仲間も「ヘビースモーカー」で部屋はヤニ臭いし,聴いている音楽も矢沢の永ちゃんだったりで,その辺はあまりソリが合わなかったなあ。
中学時代の友人関係は,この年全く機能しなかった。そもそも「一年遅れた」負い目から,友人と会うのは何ともプライドを傷つけられるし,向こうも向こうで,高校生を円滑に進める方が大変だったのだろう。ただ,たった1度だけ会いに行ったことがある。5月になって,当時の志望校(というか落ちた高校)の体育祭があって,みんなからおいでと言われたのだ。こちらも別段気にすることもなく,いそいそと出かけていったのだが,これがマズかった。「高校生」というのは,全く違う世界なのだ。みんなの会話が違っている,体育祭にしても,中学とはやっていることが違う。結果として,自分との隔たりを嫌が応にも思い知らされて帰ってくることになった。これから,中学時代の友人とは,全く違う歩みをとらざるを得なくなった。実際,翌年入学しても,基本的には一年先輩であって,元通りということにはならないので,この「離陸」はいずれ避けがたいものだったとはいえよう。
こうやって考えてみると,浪人時代のプライベートは,やっぱり大して多彩だったわけではない。それは自分のおかれていた住まいの状況もあって,街には遠かったし,周りは田んぼと山ばかりだし,そういう「刺激の少なさ」が一層変化の少なさを促していたように思う。結果的にはこれは吉でもあって,真面目に(大半を)過ごすことになったのである。
実際,浪人したからといって,何かが変わるわけではない。ただ,それに乗ってしまうと,結局勉強できなくなってしまうことはポイントであるように思う。これは大学に落ちた浪人生が,タバコにパチンコといった娯楽にはまってしまって,結局翌年も浪人したり,希望通りの進学にはならなかったりといった当時の典型的な多浪のケースによく示されている。プライベートはほどほどにストイックに,浪人生活には必要な要素なのかもしれない。
(今日の一言)
・浪人の5月は本当につらい
・人にも答案にも「ケンカ心」をかき立てるくらいの気持ちがあると強い