中学浪人を経験した教育研究者の個人的回想(4) ーひたすら問題を解き、高校入試を受けるー

  熊本の夏は暑い、何しろ6月から9月の半ば過ぎまで熱帯夜が続き、10月初旬の運動会さえ30度を超える。しかし冬は驚くほど寒い。要は京都によく似た気候で、朝は-2〜3度まで平気で下がる。

 「夏の暖房、冬の冷房完備」の松楠塾はもちろん寒く、室内のバケツの水が凍ってしまう。おまけに「南国」熊本の学校は小学校でも中学校でも暖房がない(昭和55年頃から経費節減もかねて撤去された、子供には選挙権もないし、ひどいもんだ)。鉄筋の学校ならいざ知らず、木造モルタルの塾は冷える。問題を解くために鉛筆を持つとき以外は、椅子の座面と太ももの間に手を突っ込んで、かじかみを避けていた。
 
 このころの勉強といえば、もう神業の域に近い。得意な社会など、試験では50分かかるはずなのだが、ただ解くだけなら10分とかからない。とにかくテトリスで駒を素早く適切なところに積み上げるような「熟達」を遂げていた。公立高校の5教科ですら、解くだけなら2時間かかっただろうか。答え合わせを含めても3時間強。家庭学習で8時から始めても、11時には終わってしまう。それでお休みなさい。毎日1県か2県ほど解いていくのが日課だった。当時の公立高校入試の場合、どんな問題でも解けるような見通しやセンスを養うというより、出される問題のパターンは限られるので、暗記するように知識を覚えても良かった。それが知識重視で考える力を養わないと言われた所以でもあるのだろうが、丁寧に幅広い知識を身につけることも、今になって思えば悪いことではなかった。なにか新しいことに出会った時、手持ちの知識が多いほうが理解も早い、考える力だけでは難しい。

 しかしこのころ、ニカタは少々不安定な時期に入る。それは年末、歳も押し詰まった時期、何かの拍子に夜半家の外に出たとき、満面の星空と月を見てふと思った。「1年あっという間だったなあ」。それは確かに受験に始まり、受験に終わる一年の手応えであったはず。しかし同時に、なぜか人生の1/80を「足踏みした」という「浪費感」にさいなまれる。この「1/80のロス」は、無益に命を切り刻んでしまったような気分を私に与えるに十分だった。それで、この頃から高校入学の間、私の気持ちは少し重かった。それは今にまで綿々と続く「自己との対話」でもあるのだが、また浪人をしたという悔恨の情を後々まで強く意識することにもなった。5月の憂鬱は先の長さからくる憂鬱だが、今回の憂鬱は「人生の下手を打った」憂鬱である。この思いは、いずれ様々な形で私の人格を形成することになる。
 それでも時計は回り、作り上げられた学習のペースは壊れない。幸いにも、ひたすら勉強することは、不安定な自分を落ち着かせることに役立った。何せ毎回続く「○の山」を見て、楽しくないはずはないのだから。(いや、正確にはいちいちマルを入れることもなかったので、×1つないというノートなのだ。)

 そういえば、1989年の1月。通常の学校の始業式である8日より1日早く始まった松楠塾、あろうことが学校に行った途端天皇崩御のニュースが飛び込んできた。公職追放で教職から離れた塾長がこれに弔意を示さないはずもなく、塾は休みとなった。1988年から89年、ソウル・オリンピックや昭和の終焉、バブルの盛り上がりと何につけ世の中は慌ただしかった。
 私の中学卒業は昭和63年で、浪人のおかげで入学は平成元年になった。天皇の崩御が1月7日だったことにより、平成元年の入学者はなしという事態を回避した。もちろん私が天皇の容態越年を祈ったことは言うまでもない。

 2月に入り、私立高校の試験がスタートする。熊本県は圧倒的に公立高校中心の環境で、私立は実のところそれほど難関の学校というのはない。仏教系の某高校とキリスト教系の某高校がその中では悪くなかったのだろうが、やはり公立高校の3番手にも及ばないというのが実情。特待生がかろうじて東大に通ったりして、なんとか進学実績の見た目を良くしているようなところがあった。それでも浪人にとって2浪はつらいものがある。今回はさすがに私立を受験した。
 試験は5教科、午前中を詰めたスケジュールで受験し、午後は簡単な面接にあてられていた。今になって振り返ると、天気が悪くて、それでも暖房が効いていて、私立っていいなあと思ったことは確か。受験がどうだったかは定かではないが、おそらくほとんどミスはなかったのだろう。国語の小説が、川端康成の「日向」だったことが取り立てて印象に残っている。今思えば、高校入試には少々難しい文章であったろう。良くできた、面白みのある短編だった。面接は数分だが、その時までにはきちんと試験の採点が終わっており、面接者は点数を見ながら話をしていたようだ。「きみ、公立は?」「某高校です」「そう、たぶんそっちへ行くだろうから、がんばってね」。本当にそれだけ、それだけの面接だった。かくして、私は2度目の浪人をすることはなくなった。
 私立から公立までのインターバルは約1月。私にとって最後のしんどい時期は、このひと月だった。少々気分的に不安定だったこともあるが、それよりなにより、勉強に対するモチベーションが下がる下がる!おそらくはこれから何もしなくとも、受からないことはまず考えにくい程、問題は解けていた。この中で、今まで通り1日10時間近い学習をどうやって続けるか。贅沢といえば実に贅沢な時期だった。結局のところ小心者の私は、変わらず机に向かうことになったのだが。

 どうやらこのころには、私の中にはいくつかの信念があるようになっていた。
・自分は他の人よりも「できが悪い」ので、人と同じことがしたかったら、人よりコストをかけるべき
・ともかく「浪人の反省ができている」ように行動するべき
 この意味において、私は比較的ペシミストである。実際のところ、この時期以降、常に自分を強く律するということもないので、それは「詰めの甘いペシミスト」と言われても仕方がないが。とにかく、自らにポジティブな評価を与えないという態度は、これ以降長く続くことになる。

 そうこうしているうちに、公立高校の入試もやってきた。試験は実にスムーズに進んだ。社会では7回目の見直しの際に、ケアレスミスをみつけ書き直した。国語を除けば、どの教科も10分から15分でできた。かくして私の入試は、あっけなく終わった。自己採点では、国語の1問以外どう考えても間違いはなかった(いや、国語の模範解答すらその答えでいいのか首をかしげたほどだ)。後になって分かったことだが、どうもこの自己採点、正しかったようだ。
 試験が終わった翌朝、私は1年ぶりに断っていたCDをレンタルし、チック・コリア=エレクトリックバンドと工藤静香を借りた。久々に新しい曲が私の耳にはいった。このときの爽快さと開放感は忘れない。ほどなく塾の終了式があり、合格発表があった。寒さの和らいだ3月の下旬、張り出される番号の誰よりも早く、私は「1」の数字を探し当てることができた。何はともあれ、私は、高校生の切符を手にしたのである。

(今日の一言)
・チェックというのは、どれだけやっても困ることはない。
 時系列的な話はここまで、次回は記憶のオムニバス。


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荷方邦夫
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