「何者にでもなれる」は「何者でもない」と同義。
タイルや木みたいな生ものを使う時は、地産や所縁といった土着的な価値観は重要だと感じる。
近代の建築を俯瞰して見てみると、削ぎ落としていくミニマリズムと、数字や言葉から発育させるコンセプチュアリズムと、素材や環境に耳を澄ますヴァナキュリズムの3つの中心を丁度よく漂ってる印象。
要は、出来るだけシンプルに削げるものは出来るだけ削いでいき、その残ったものには意味と役割を与え、材料には出来るだけ天然のものを使いましょう、みたいな概念。
良い言い方をするとイイトコ取り、悪い言い方をすると、中途半端。
意味や役割すらも削ぎ落としてしまうミニマリズムに成りきれないのはなぜかと考えた時、近代の自由主義が原因ではなかろうかと。
階級主義の時代では一人一人に役割と階級が与えられていて、「何のために」みたいなことを考える必要はなかったが、1970年頃からの「何者にでもなれる」という自由主義は、「何者でもない」という反面もあり、「意味を作らずにはいられない」という文化が生まれるのは頷ける。
江戸末期と昭和末期に訪れた自由主義の中で面白いのがバブル期を孕んでいるということ。
自由主義最盛期には量産のためにミニマリズムが主流となり、泡がブクブクと膨らんで弾けてとんで、段々と階級社会に戻っていく。
近代の建築やデザインもミニマルだけでは落ち着かず、意味や役割を追い求めている過渡期な気がしている。
タイルや木の土着を求めようとするのもコンセプチュアルの一部と捉えると、自由主義の終わりの笛が聴こえてくる(ような気がする)。
デザインや文化が成熟する瞬間はその自由と階級の狭間は必要で、現代でも残っている物は複雑な物ばかり。
もっともっとゲテモノ的なものを作り始めなくてはならないという寒気が走る。
まだまだミニマル過ぎる。
設計の目線としてはゲテモノをゲテモノのまま提供したいという下心と、大衆向けにどこまで濾過するかみたいな理性とがひしめき合った結果、結局施主から頂くインスピレーションに揺さぶられるという芯のなさ。
解脱したい。
とは言え意味や役割は安心するが、それは依存か?
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