はみ出てからじゃないとわからない。
床上げを行わない場合の配管ルートはデリケートに考える。
特にマンションだと、排水先が決まっているため対応していくしかない。
普段は職人さんに殆どお任せしてしまうけれど、今回はしっかりと図面を描いてお願いした。
収納家具下の巾木部分は土間の床と同じアシュフォード。
ムラ感のある塗料で責任施工が必要ないのはアシュフォードくらいかも知れない。
最近はマーケットに卸さず、コミュニティや繋がりやライセンスがないと手に入らないようなやり方してるメーカーが増えてきてる感覚。
「知ってるけど買えない」これが重要なのかもしれない。
収納の建具はほぼ全てハンドルレスでプッシュオープン。
きっと5年も経つと手垢まみれになるだろうけれど、そういう蓄積は「大切にされている」ことを視覚化してくれる尊さがあると思う。
過去最高の収納量の今回のリノベーションだが、久しぶりに訪れて話を伺うと、結局収納はパンパンになっているそうで。
引っ越す前の賃貸のころと比べると4倍程度には収納量は増えてるはずなのだが、はみ出ている量は変わらない様子で施主は首を捻っていた。
「人間らしくて良いですね」と伝えつつ、限界まで物を増やしてしまう我々は「はみ出てからじゃないと分からない」みたいな痛みでしか理解できないというヴィドゲンシュタイン的な性質があるのかも知れない。
空間的な間を埋めた時に生じる「ふら」のようなものを常に意図して設計する様にしていて、余白は余白のままでは終わらせず使用者の祝祭性に合わせて埋めたりするような可笑しさを作ることができればと思う。
余白ベースの設計手法で長らく進めているけれど、それは僕の中での厭離穢土でウェルビーイングだったりする。
僕の中での本質で普遍的で尊いものではあるけれど、無意識に施主たちになすりつけてはいないだろうかと、考える瞬間がある。
何が幸福なのか?の背骨を作るプロセスが家だと思っているのだけれど、微笑みしかない天国を選ぶのか、涙と爆笑がある地獄を選ぶのか、は人それぞれで。
結局、「何歳で死ぬのが幸福か」みたいなことになるのかも知れない。