「教育の目的」が「人格の完成」を目指す日本だからこそ
日本の教育基本法の第一条には「教育の目的」について書かれています。
私たち日本人にはおなじみの条文ですが、西欧や北米ではびっくりなのだそうです。それは、第1条、つまり最も象徴的なことが書かれるべき条文に、「知識」「技能」という言葉が「書かれていない」ということです。そして、「人格の完成」は「宗教」や「家庭」が担うものなのに、学校で行われるのか!という衝撃です。
「教育の目的」が「人格の完成」を目指す日本だからこその風景を、自分の教員生活から切り取ってみました。
教育の目的が、人格の完成を目指す日本だからこそ、
万引きした子供に関わり、保護者とも話し合い、一緒にお店に謝りに行く。SNSでのトラブルに介入し、指導する。宿題を出し、家での学び方も指導する。歯磨き指導や睡眠指導などの健康教育を行う。自分の見方・考え方を発揮して、子供に説教じみた話をする。人間成長というテーマをもって時間外でも部活動の指導を行う。夏休みにも学習指導を行う。
いかがでしょうか。私の個人的な解釈で、負担感を感じることをのせてみました。でも、同時に、こんなこともありました。
教育の目的が、人格の完成を目指す日本だからこそ、
買い物中に部活動で指導した保護者に声をかけられ、思い出話をする。二十歳を超えた教え子と一緒にお酒を飲む。教えてもらったお礼の言い方が、今も役立っていると教え子に言われる。部活動の教え子の全国大会を応援に行く。勉強ができなかった子が高校に入ったと連絡をくれる。暑中見舞いを毎年くれる子がいる。先生のおかげで…と言われる。
などなど、いい思いもたくさんしてきました。
振り返れば、「人格の完成」を目指す日本の先生は、大変です。でも、「先生」という存在に向けて温かい思い出がある方も多いと思います。また、自分を変えてくれた先生へ向けた著書も多く出され、「人格の完成」を目指した先生の感動的な物語も、多々目にしてきました。
ドラマのスクールウォーズを見ると、感動して泣けてきます。また、実際の伏見工業物語も、読む度に泣けてくるんですよね。
昭和の先生は、まさに「人格の完成」を目指して駆け抜けてきたのだと思います。私たち、令和の先生も、「人格の完成」を目指して、子供の人生の一部分をすてきな時間とともに共有できたらと思います。
三浦健太朗