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【読書感想文】ヘッセの宗教的な経験 3



【読書感想文】ヘッセの宗教的な経験 3



川の渡し守・ヴァステーヴァの元で学ぶことにしたシッダールタ。ヴァステーヴァは傾聴において抜きん出ていました。

ゴータマの病が厚いというので、その最期を看取るため遍歴の者が次々訪れました。かつての愛人カマーラとその子供もやってきますが、カマーラは川辺で毒蛇に噛まれて死にます。

ヴァステーヴァは

「おん身は悩みを経験した。だが察するに心に悲しみは入り込まなかった」と言い、シッダールタは

「どうして私は悲しむ言われがあろう?よりいっそう豊かに幸福になった。私は子供を授かったのだ」と返事をします。

カマーラを手厚く弔い、川辺では、ヴァステーヴァ、シッダールタとその子供三人の生活が始まりました。

けれど、子供はカマーラの元、町での暮らしに慣れており、その上シッダールタが子供を下にも置かない扱いをするので、次第にひねくれていきました。

ヴァステーヴァは

「川にシッダールタの子のことを聞くと、嗤うのだ」と、心配していることを伝えますが、シッダールタは「愛と忍耐をもって彼の心をとらえる」と言います。

ヴァステーヴァはかつてなく饒舌にシッダールタを諭します。

「愛は力より強いことを、おん身は知っているのだ。それゆえに、おん身は彼を強いず、打たず、命令しない。大いによろしいが、おん身が子を強いていない、罰していないと考えるのは誤りではないか。おん身の愛によって彼を縛ってはいはしないか。あの高慢で甘やかされた少年を、老人と一緒の小屋で暮らさせていはしないか。老人たちの考えは彼の考えではありえず、老人たちの心は静かで彼の心とは動き方がちがうのだ。彼はそういうことを強いられ、罰せられているのではないか」

「どうしたらよいと、おん身は思うか」

「子供を町へ連れて行け。教えを受けさすためではなく、ほかの少年少女と一緒にするためだ。彼の世界である世間へ連れて行け」

「おん身は、私の心を見抜いている」

シッダールタは悲しげに言った。

「私はたびたびそれを考えた。だが、彼はぜいたくにならないだろうか?権力と快楽におぼれはしないだろうか」

「それを川に聞いてみるがよい、友よ!川がそれを笑っているのを聞くがよい。自分が愚かな行為をおかしたのは、息子にそれをさせないためだと本当に思っているのか。一体輪廻に対して息子を守ることができるか。

おん身が息子を愛するからと言って、子供のための苦痛と失望を免除してやれると思うか。たとえおん身が十度死んでも、子供の苦痛のいちばん小さい部分でさえ取り除いてやることは出来ないだろう」

シッダールタはヴァステーヴァの忠告に従うことが出来なかった。

この愛、息子に対する盲目的な愛は煩悩であり、きわめて人間的なものであること、それが輪廻、濁った泉であると感じていたが、同時にそれが無価値ではなく自分自身の本質から出たことを感じていた。


そして、シッダールタの息子はついに爆発します。

「おまえは信心と寛大で絶えず僕を罰し、いじけさせようとしているんだ。僕はおまえを憎む。おまえは僕の父ではない。おまえがたとえ母の愛人であったとしても」

シッダールタの息子は川辺の小屋にあった金や小舟と共に消えます。

小舟を探し出すことはできましたが、櫂はありませんでした。

息子によって川底に投げ捨てられた様子。

「息子がおん身に何を言おうとしているか、分からないかい?息子はおん身に追跡されたくないのが、分からないかい?」

シッダールタはヴァステーヴァの言うことに従わず、しかし心の奥底では息子が森の中で死ぬことは無いと、知っていました。

「もはや息子を救うためではなく。ただひょっとしたらもう一度会えるかも知れないという願いから。」

彼は結局息子に会えず、川の声を聞きます。

シッダールタは昔沙門となるため父と衝突し、以来二度と戻らなかったことを思い出しました。

「父もシッダールタのために同じように苦しまなかったか。彼の父はとっくに息子と再会せず死んだのではないか。彼自身も同じ運命なのではないか」

僧の慈悲でもらったバナナ2本のうち1本を食べ、もう1本を彼を追いかけてきた友人に渡し、渡し場に戻りました。

シッダールタが悟りを開くときヴァステーヴァは森の中に統一され、遍歴の旧友ゴーヴィンダと再会します。

その中の問答にて、退廃的な生活を経てカマーラやその息子を愛し、ヴァステーヴァという友を得たシッダールタは

「目標としたものを探り求めると、探り求めるものだけを見るということになりやすい。探り求めるものは、目標に取り憑かれているので、何ものも見出だせず、心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。これに反し見出だすとは、自由であること、心を開くこと、目標を持たぬことだ」

「よく分からない。それは一体どういうことだろう?」

シッダールタはゴーヴィンダを渡し場の小屋に招き入れます。

「人は物を人を愛することができる。だがことばを愛することはできない。解脱も涅槃も単なることばに過ぎないからだ」と言います。

「私がひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界を軽蔑しないこと、世界と自分と万物を愛も賛嘆と畏敬をもって眺めること」

「それは分かるが、それこそゴータマは、幻覚と認識された。彼はいたわりと寛容を命じるが愛を命じはしない。ゴータマはわれわれ弟子らに、心を愛によって地上のものにつなぐことを禁じた」

シッダールタはかつてゴータマに話したとき、彼が聖人であることを認め、なぜゴータマが愛を知らないことなどあろうか?と言います。

尊敬する師ゴータマの思想・ことばの矛盾を突かれ、ゴーヴィンダは反発を覚えながら

「われわれは老人になった。お互いこの姿でまた会うのは難しいだろう。おん身は平和を見出だした。私は平和を見出ださなかったことを告白する。尊敬する友よ、もう一言言って欲しい。私が理解しうるものを何か与えてほしい。私の道はしばしば困難で、暗いのだ、シッダールタよ」

私の気持ちは、祖先信仰を感じさせる仏教に反発し、キリスト教的な考え方に近いと思っていたのですが、子供への愛が「煩悩」だと指摘しつつも、最後にそれを受け入れる釈迦、仏陀の悟りの表現は胸にくるものがありました。


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