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両親の寝室の本棚を見て感謝の念を抱く

(トプ画はPixadayよりStocksSnap作) 僕は短い自分の半生を実家の外で過ごしているのですが、そんな人生を生きてきたからこそ、数少ない実家への帰省では家の家事を手伝っております。
 幾分か前、そんな実家生活の中で家の掃除をしていて、両親の寝室に掃除機をかけるために入ったとき。僕は両親がその人生の数十年の中で購入し、読んできた本で満たされた本棚にふと目をやりました。もちろん長い人生の中捨てたり売ったりしたものもあるでしょうが、その本棚何百冊もの本がしまわれており、僕が幼少期に読んでいた物語や小説なども置いてありました。
 僕はそのときに強く感じたのです。こんな家だからこそ、僕は読書の習慣を身につけられたのだろうな、と。

読書習慣は育った環境に依る所が大きいという

 学問は生まれに限らずその後の人生を動かしてゆける手段のひとつであるという考えは、立身出世を目指す人々のなかでの救いであり、またその考えが全く的外れであるとは思わない。
 ただ、そう、生まれ-すなわち身分は関係なくとも、育てる者が学問に対しどう向き合っているのか。それは、身分と同じくらい、いや身分よりもよほど大事な要素であろう。たとえ親が学術的な職業に携わっていない家庭に産まれた者であっても、両親がその子に本を与えるか、或いは図書館などに連れて行くような環境を作るか、つまりは子供に本を読ませる環境があれば、子供は本を読むようになる。逆に、たとえ親が学者であろうが子供に本を読ませる気がないなら読書など身につかない。それは、歴史上天才であるとか賢い人であると言われた学者や作家の中に、
親は平々凡々であったものの彼らの向学の芽を摘まずに丹念に育てあげたことで、その才知を輝かせた
という類いの人々がいることからも容易にわかる。
 まこと教育というものにおいて苗を木に育てることは学校機関の責務であっても、種を撒き、芽を出させ、苗となるまで守ることに関してはその家庭での教育がものをいうのだと言わざるをえない。

子は親の背中を見て育つ

 では親はどのようにして子供が本を読むようにすればいいのだろうか。半強制的にでも読ませるべきか。とりあえず本を買い与えればいいのか。正直に個人的な見解を語らせてもらうと、それらも間違っては、いないと思う。スポーツも楽器も自転車も、楽しさがわかる段階までは、全く苦痛や疲労を伴わない訓練などないのだから。読書も同様。その楽しさを実感するまでには退屈な時間も避けられない。
 だが、それらよりもっと根本的に、本質的に、かつ物質的な教育よりよほど直接子供を読書へ向かわせる手段がある。それは

親自身が、子供の前で、本を読むこと

である。
 人は、見たことがない行為を行なうことはできない。「高学歴の人間は親の学歴もまた高学歴なことが多い」という言説は、まさにここから来るので、親が日常的に勉強を行うような家庭だからこそ、自然と子供も勉強という行為が日常的になり、勉強をするというものである。
 同様にして、子供は親が読書をする光景を存外見るものである。親が本に親しみ、本を楽しむ姿を見ればその子は、我が親は手にした道具でなんと楽しそうな時間を過ごしていることだろうと思う。そして、自分もあの道具を用いれば同様に楽しい時間を過ごせるのだろうかと思い至ることは明らかである。それはまさしく

子供は親の背中を見て育つ

のである。
 そしてもし、そんな思いを抱き始めた子供が、家の本棚、たとえそのような設備がないとしてもふと机の上に本があれば。その本を手に取り、ページをめくることもまた、自然と想像ができる。もちろんその本が難解極まりないものであったのなら、必ずしも子供がそれを楽しむとは言えないが……机に置く本などは、親が自由に決められるものである。
 私の父母は幸運にも読書が好きで、またその部屋には本棚が置かれ、そして私はそれらを見て育った。それらに興味を持ち、「読書」という行為を行いたくなることも当たり前の流れであった。まあ実際のところは、私は幼少期は読書が大の嫌いであったが……それはまた次の機会に話したい。
 いずれにせよ世の親に申し上げたい。もし自らの子供が本を読むようになって欲しいと強く願うのであれば。
 率先垂範。
 あなたがその生き方をもって、子供に示すことが何より重要なのだ。

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二時まで夜ふかし
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