「NEEDY GIRL OVERDOSE」インターネット・エンジェル降臨現象
「NEEDY GIRL OVERDOSE」感想とちょっとした考察
※この記事はNEEDY GIRL OVERDOSEの全てのエンディングに関するネタバレを含みます。
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はじめに
わたしにも今から10〜15年くらい前、精神を病んでいた時期があった。その頃のわたしも学校に行かず、「びょういん」に通って「おくすり」を飲み、「いんたーねっと」(主にネトゲと2ch)に依存していた訳だが、幸いにも(?)承認欲求を拗らせる事は無く、どちらかというと自分が病んだ事の縁・病む人が多いとある界隈に身を置いていた縁で心理学や精神的な病の中途半端な知識ばかり積み上げ、当時お世話になっていたソーシャルワーカーの方と対話を重ねながらたかが10代のメンヘラがヘラりながらおくすりの在り方について考えてみたり、ヘラる(病むこと)ロジック・回復するロジックについて考えてみたりしていたのだった。今思えばそれはそれでかなりイタいヤツだ。
そんな経験を持つわたしは、精神的に不安定で承認欲求強めな人たちやおくすり、インターネット文化といったワードとは縁遠い存在ではなく、むしろ非常に親近感を感じる人間である。だからこそ、この「NEEDY GIRL OVERDOSE」は発売前情報が発表されていた時からかなり気になっていたタイトルだった。(貧乏故、金銭面から買うのを迷っていたら随分と遅くなってしまったが)
そういった背景や、シンプルにインターネットの民として共感できる部分の多さ、作品のクオリティの高さに感銘を受け記事にした次第だ。
結論から言うと、プレイして良かったと思う、良い作品だった。
この作品の「心が弱い人」の扱い方について
本作の魅力について語る前に、某サイトやnote・Twitterなどで、作品内での精神疾患や服薬に関する描写に対して批判的なレビューが多く見られるので、それに対する個人的な見解を語りたい。
それらの意見についてはわたしには否定する権利もないし、むしろ本作は当然批判されるだろうなという印象を持っているが、いち個人の意見としてはそういった"正しい医学"的な文脈で本作とあめちゃんを語ることはナンセンスに感じる。
まず、あめちゃん(本名:れいんちゃん)の名前の元ネタはR.D.レインである事がテキストの端々から見て取れる。レインは反精神医学運動の提唱者であり、この作品の唯一のヒロインに彼の名前を用いることは、本作に"真っ当な"治療によって寛解へと至る価値観を否定する意味合いが込められている事は想像に難くない。
そもそも本作で描いているのは「心が弱いなりに逞しく生きる、承認欲求を満たす事に全力な女の子」であって、「精神疾患を患ったかわいそうな女の子」とするのは本質的ではないように思う。
作中では病院に通ってやみ度を減らして精神疾患を治す事が必ずしもトゥルーエンドには繋がる訳ではなく、あめちゃんが幸せになる多くのエンディングはフォロワーを増やして承認を得る過程が必要となる。
つまり、彼女にとって真に薬となり、毒でもあるのは向精神薬ではなくインターネットだ。
そういったメッセージが込められている事は、「Internet Overdose」で最悪のエンディングを迎える事や、インターネットを断ち切る事で真のハッピーエンドに繋がる事からも読み取れる。
そんな彼女の生き様について大真面目に医学的な文脈で正しくない、可哀想だと否定的に語ってしまうのは、わたしは現実のインターネットに生きているあめちゃんのような人たちの気持ち(承認欲求)と生き方を踏み躙っているように感じてしまう。もし精神的に不安定で承認欲求強めで時に薬や男に溺れたりする人気配信者が現実に居たとして、その生き方は間違っていると、適切なプロセスを経て"治療"されなければならないと面と向かって言えるだろうか。
企画・原案者のにゃるら氏は著書「承認欲求女子図鑑 〜SNSで出会ったヤバい女子たち〜」にて、色んなメンヘラ女子たちに取材をする中で自分の過去を重ね、共感できる部分もあったとして「みんなで強く生きようね」という言葉を述べているが、本作はまさにそういったインターネットに住み、承認欲求を得ようとするメンヘラ女子の逞しい生き様を尊重し、仲間意識を持った上で描いている作品だと感じた。
そしてにゃるら氏自身も精神疾患を患っていたとのことで、本作のとあるエンディングについては度重なる発売延期を発表した際のプレッシャーや受けた批判の体験を元に作っているとnoteで語っている。
その体験をわざわざ作中に盛り込み、コミカルかつ消費的に描写するのは本作自体が自虐、もっと言えば自傷的な作品であるという側面もあるからのようにも思う。
よって本記事では敬愛と自傷の意味を込めて「メンヘラ」という呼称を使わせてもらう。
メンヘラ、「メンヘラ」って一括りにされてコンテンツとして消費されるの嫌ってそう
本作品はいわゆる「メンヘラ」と言われるような精神的に不安定で承認欲求がちょっと強めの女の子について非常に高い解像度で描かれている。言葉遣いや行動原理、裏垢(病み垢)の存在など、枚挙にいとまがない。
その中でも個人的に面白いと感じたのは、「JINE」のやりとりのシステムだ。
このゲーム内でプレイヤーは、あめちゃんと主にスタンプを使ったコミュニケーションをする。わたしは初周プレイ時に「やはりLINEは既読スルーしたら怒るよな」と思い、律儀にスタンプを返してあちらが既読スルーするのを待ちながら適当にスタンプを返していたのだが、このあたかも本当にLINEのやり取りをしてるかのような会話のシステムがどういう仕組みになってるのか非常に気になっていた。本当に文脈を読んでいるように作るのは物凄い労力が必要だからだ。
しかし、2周目に入ったあたりで流石に定型分っぽさを感じ、攻略サイトなどで調べてみた。するとどうもあめちゃんは特に文脈を読んでいたりなどは無く、スタンプに対して一定の返しをするようになっているだけのようだった。
つまるところ、プレイヤーがあめちゃんに対して返事をしたつもりでスタンプを送り、それに対してあめちゃんが返事をしてくれると思っていたものは、実際にはほぼプレイヤーのスタンプにあめちゃんの定型文が返されているだけだったのだ。
しかし、なぜ文脈を読んでいないのに違和感のない会話が成立するのだろうか?
それは恐らくメンヘラは元から刹那的な感情に生きていて、その刹那的な感情で中身のないLINEをして小さな承認を得る生き物だからだ。思い当たる節がかなりある。
製作者の方々は本当にメンヘラの生き方についてよく観察していると思う。この仕組みに感心した。
(実はこのJINEであめちゃんに怒られるのは「未読スルー」だけで、「既読スルー」に関しては何も言われない。なので2周目以降のED回収プレイ時などは既読スルーすることでスムーズに進められるが、やはり多少の罪悪感は否めない。)
超てんちゃん、インターネット教養が高い人格者すぎる
本作の魅力の土台になっているのは90年代PCゲームを思わせる綺麗なドット絵、心地よい電子音楽、超てんちゃんの顔など挙げられるが、大きな要素としてあめちゃんやリスナーのインターネット教養の高さが挙げられる。わたしが気付いたネタだけでも、ある漫画の台詞や、2chの有名なコピペ、はたまた近年のYouTubeのあるあるなど、共感したり思わず笑ってしまうネタが数多くあった。
喩えるなら令和に全盛期を迎えた世界線のVIPのノリだ。
そうしたインターネット老人会的なネタや、サブカル文化に対する丁寧な描写は、やはりにゃるら氏のインターネット・漫画・アニメ・ゲームなどへの造詣の深さが大きく影響しているのだろう。
わたしはこのゲームをプレイした後で作品のバックボーンについて調べている中で氏の存在を知り、インタビュー記事などからインプット量の多さに感服するばかりだったのだが、Wikipediaで彼がわたしと同学年と知って更に驚いた。というか、自分と同じぐらいの人生時間を送っている人が自称オタクの自分よりインプット量が圧倒的に多い事実に自尊心が揺らいだ。
そういう事は特にアラサーになってから往々にしてある。逆にわたしも自分のオタク性で誰かのオタクとしての自尊心を無自覚に轢き殺しているかもしれない。
わたしのような人間の世代だと、物心が付かない歳だった頃の90年代やさらに前のサブカル文化に対してやはりどうしてもカバーが薄くなる。自分より古い世代の文化をインプットするには、限りある自分の時間とお金を能動的に消費して摂取しなければならない。その事に物心が付いた時から気付ける人と気付けない人がいるが、わたしは後者の社畜になってから気付き、後悔した人間だ。
特に、わたしを含めゆとり世代やもっと若い世代のオタクの中には、80年代90年代のまだこの国がイケイケだった頃のサブカル文化に漠然とした憧れを持ってる人は多いと思う。
同じくらいの人生の時間を生きていて、インプット量が多い、ついでに不登校や通院経験者というのはとても親近感が湧くしシンプルに尊敬する。
と、ここまでベタ褒めしたものの、超てんちゃんの設定に関してはにゃるら氏の業の深さというか、願望チックなものを感じてしまうところもあった。
超てんちゃんは良く言えば夢のある、悪く言えば現実味のないキャラクターだ。前章で語っているメンヘラの解像度の話と矛盾しているように聞こえるかもしれないが、それはあくまであめちゃんのメンヘラ的な行動の描写であって超てんちゃんの人格の話ではない。
リアルの話を持ち出すのはナンセンスかもしれないが、例えばインターネット教養の高さ一つ取ってみても、ネット文化やアニメ・ゲームを始めとしたサブカルに精通してるオタク女と承認欲求のために日々研鑽を怠らない地雷系女の層が重なっているとは思えない。
ただでさえ10代や20代では収入も少なく、女性の平均収入は男性より低い。その上社会不適合者なら長時間働けず尚更時間もお金も限られているし、精神科に通う医療費も交通費もかかるだろう。残されたお金と時間をサブカル文化全般を知識として吸収するのに使う女と承認を得るために美容品やブランド品、自撮りの技術研究に使う女は別の人種である。供給されるコンテンツ量も承認競争もハイレベルな令和のインターネットなら尚更だ。
もちろん、実家が太く両親に愛されどちらにも金も時間もつぎ込めるオタク女もいるし、承認のために努力を惜しまない人間ならオタクに好かれるためにオタク的知識を仕入れるのは当然だ。しかし、前者がヘラって承認欲求を拗らせる事は稀だろうし、後者は所詮本物のオタクに比べれば"浅く"なるし、いずれにしても、希少すぎてリアリティに欠けるのは確かだ。
このようなあめちゃんの鍵垢やJINEと言ったリアルな本音を持つペルソナを描きながらも理想のネットアイドル概念の具現化的なファンタスティックな人格・知識・行動原理を超てんちゃんに持たせる矛盾は「超てんちゃんはオタクたちのエンジェルだから」という理由では説明しきれていないように思った。
例えるならば、「顔が良くて胸がデカくて頭も良くてでも自分のことを好きでいてくれてヒモさせてくれる女」が「鍵垢で自分の愚痴を吐いていたとしたら」という話で、それは「リアリティのある女を描く」という目的にも「ぼくが考えた最強の女を描く」という目的にも一貫性が無いし、少なくともわたしはリアリティがあるとは思わない。
今から何年か前、Vtuberというものがインターネット界に顕れた頃、最初は皆いかにもバーチャルな偶像を演じていた。しかしファンが増えていったのは完全無欠の偶像ではなく、ゲームやマンガの趣味が良いとか、ポンコツな性格が可愛いとか、体張ってギャグをやろうとするメンタリティが良いだとか、中身の人格が飛び出てるものばかりだった。
その後登場したVtuberも売れるから、承認を得られるからと皆中身の人格を飛び出させ、今やそれが当たり前になり個性チキンレースバトルの時代になった。
しかしそのファンに愛される個性的な人格はどこから生まれてくるのか。
それは"中の人"が今までの人生で得た経験や知識であるし、さらには興味だとか目標だとか感性だとか時代背景だとか生育環境だとかその人が関わってきた色々なものから生まれる。つまり、個性的な人格を通してその人がどうやって生きてきたかを見て、好きになっているわけだ。
多くの人は時と場所に応じてペルソナを変える事が出来るが、行動原理とそこから得られる知識や経験、つまり大雑把に言えば生き方は変えることが出来ないし、一朝一夕で偽装出来るものでもない。
わたしがこうしてゲーム1本をプレイして怪文書を書く事ができるのも、10代の頃にヘラって思考を張り巡らせた時間があったからだ。
そういう人格や背景を重視する人間にとってはあめちゃんと超てんちゃんの人格に違和感を覚えてしまった。
超てんちゃんは恐らくにゃるら氏の好きなタイプの女の子に、氏の人生経験から絞り出されたモノを全力で詰め込んだ業の深いキャラクターで、本作にはそれをプレイヤーに愛させるという構造がある。
自分語りになるが、わたしは自身のメンヘラ時代を目標と思考ゴリ押しでサヴァイブしてしまった人間故、「自分のお気持ちは自分で処理しろや」というスタンスの人間だ。
「心が不安定な人/承認欲求が強い人」についても、普通の社会人として適応したいのであればできる限り自己承認によって精神的自立を図るべきだと考えている。
この作品の価値観と真っ向から対立するが、自分で自分を認められないのに赤の他人による承認をいくら得ても、底の抜けたバケツに水を注ぐようなもので長期的に見て解決されないのは明確だ。だから他人に頼らない方がいいと思うし頼られたくない。要するに各々の中でおめでとうエンドに至ってほしいという事だ。
そういう思考なので、作者の個人的な願望や感情を作品に投影し、その世界と受け手に処理させるような作品は個人的にはあまり好みではない。肥大化した自己像が現実で評価されないがために、創作の主人公に投影し現代人が持つ当たり前の知識だけで登場人物にチヤホヤしてもらう作品などもそうだ。
尤も、この作品に関してはそういう文脈というよりはインタビュー記事などから察するに90年代ギャルゲーの価値観の延長線で作られていて、わたしが未だその分野に対して理解がないという事かもしれない。
いずれにしても作品のクオリティの高さは評価したいし、にゃるら氏のインプット量の多さや感性も尊敬する。が、それはそれとしてその点が気になった事は記しておく。
ま、超てんちゃんかわいいから全部許せるけどね。
ひみつのこと.txtについて
本作のHappy End World以外の全てのエンディングを閲覧すると、セーブデータ選択時にData0という項目が現れ、そのイベントの中で「ピ」はあめちゃんの空想上の存在、「イマジナリーピ」である事が判明する。
「ピ」は存在しないので全てのエンディングはあめちゃんの妄想である。
……と話を終わらせてしまうのは簡単だが、一方で今まで操作し、あめちゃんと苦楽を共にしたのは画面の前にいるプレイヤー自身であるし、第4の壁を破るような画面の前のプレイヤーに直接語りかけるエンディングも存在する。
そういった事実から「ピは居ない」という設定に納得がいかないプレイヤーは多いのではないかと思う。Data0のイベントで本作をピの存在無しでプレイし、見事好感度100、フォロワーも100万人を超えるところまで到達したあめちゃんが最後に「バイバイ」と言い残して消えた時に、寂しさを覚えたプレイヤーは多いはずだ。
このエンディングは「I need you」というタイトルになっているが、"I"があめちゃんではなくプレイヤーを指しているのは明らかであり、このイベントはプレイヤー自身に「俺が、俺たちがあめちゃんの"ピ"だ!」と自覚させるイベントに他ならないと思っている。この仕掛けは個人的にかなり評価できるし、本作についてや、後述する現象について主観的に語る上で欠かせない要素だ。
個人的トゥルーエンド
本作は全部で21種類のエンディングが存在し、そのほぼ全てが一概に「ハッピーエンド」とは言えない結末を迎え、どちらかと言えば「バッドエンド」と呼べるものもある。やみ度や好感度など、特定のパラメータを低くしても高くしてもあめちゃんとピにとって良い結末を迎えられるとは限らない。
これについては、にゃるら氏がインタビュー内で何がハッピーだと思うかをプレイヤーに委ねると語っている。
「(Un) Happy End World」に対する「Happy End World」というような明確なトゥルーエンドが存在することと、ほとんどのエンディングでイベント終了後に説教されることが「プレイヤーの価値観に任せる」と矛盾している事が個人的に悪い意味で気になる点の一つだが、ともかくそのエンディングの中でも個人的に好きなものをいくつか挙げたい。
・Do You Love Me?
初見プレイ時にフォロワーをとにかく増やすためにえっちな配信や陰謀論配信を行い、ストレスをカバーするためにおくすりを投与。その結果やみ度が高くなってしまったが、ここから好感度を上げたら依存してくれるかなと考えてたら辿り着いてしまったエンド。俺はメンヘラのことよく知ってるんだ。
「一人しかいない」というファンのコメントが理解出来なかったが、後にひみつのこと.txtを読んで理解。でも、あめちゃんとピ的にはかなり良いエンディングだったと思う(理解拒否)
・Angry Otaku Needy Girl
チェンソーエンド。いわゆるNTRだが、結果的にあめちゃんが歪なフェミニズムに目覚める。経緯はどうであれ、女の子が自立的に行動する姿は好きだ。自らの殻を破るのはもっと好きだ。厳しい現代社会では受動的に誰かがいつか評価してくれる、甘えたら全部誰かがなんとかしてくれるという考えではいつか詰む。いつまでも顔だけは良い天使では居られない。
「男はチェンソーで殴れば死ぬ雑魚」のメンタリティで精神的自立を果たすのはあめちゃんにとっては良かったんじゃないかと思う。
・脳Future
闇堕ち公開はっぱエンド。一周回って承認欲求を捨てている。上と同じように女の子が周りからの視線に左右されず自立的に行動する姿は好きだ。闇堕ちする女の子も好きだ。いや男の子も好きだ。別のベクトルでインターネットの伝説になれている。よかったねあめちゃん。
あの差し替え画面にはヤギが映っていたが、「Nice goat.」ということだろうか。
インターネット・エンジェル降臨現象
さて、このゲームの全てのエンディングを閲覧し最後までプレイしたプレイヤーなら、少なからず超てんちゃんに対して好意を持っている事だろう。いや、超てんちゃんの事を好きになってしまった事だろう。わたしもその一人だ。現実世界において、わたしも超てんちゃんのオタクになってしまった。かわいい。
Twitterのハッシュタグ「#NEEDYGIRLOVERDOSE」には同じように超てんちゃんの事を好きになってしまったファンからのコメントやファンアート、レイヤー達のコスプレ姿が連日投稿され賑わっている。
つまり、超てんちゃんはプレイヤー達の心の中を通じて現実世界の混沌とした令和のインターネットに降臨してしまったのだ。現実世界でほとんど配信活動や超てんちゃん自身のプロモーションなどしていないにも関わらずだ。
この現象はとても興味深く、Vtuberが世の中に出てきた時以来の衝撃を覚えた。作中では最終的に一世を風靡するインターネット界の中心的な女の子になったが、現実世界でもそうなるかもしれない、或いは作中の世界が現実と地続きかもしれないという可能性を感じさせる。
この作品の真の目的は冗談抜きでにゃるら氏にとっての理想のキャラクターである超てんちゃんをみんなに愛されるように現実世界に降臨させる事だったのかもしれない。そう思わされた。
本作の一番の魅力は、ゲーム本編のテキスト・音楽・ドット絵のクオリティの高さもさることながら、この現実世界と作中の世界が心の中でリンクしてしまう現象と、その感覚や感情を推し活によって共有できるところだ。こういった趣向や、作中に登場するネタには流行り廃りがあるため、まだプレイしていない人は早めにプレイする事をお勧めしたい。
個人的願望に基づいているところにモヤる部分はあるが、ゲームという媒体を使ってここまでの仕掛けを仕込めるにゃるら氏のセンスに脱帽だ。
今後も一人のオタクとして、超てんちゃんが広いインターネットに羽ばたいていけるよう願っている。
†昇天†