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「Katana ZERO」はただの2Dアクションではない。至高のゲーム体験を与えてくれる傑作だ。

はじめに

コンピューターゲームにおけるゲーム体験というと何を思い浮かべるだろうか。
「FINAL FANTASY」をプレイして共に旅をし成長したキャラクターの死に泣いたことだろうか。
「SEKIRO」をプレイして剣戟の末に宿敵を倒し狂喜したことだろうか。
「零」をプレイして霊的な存在に襲われて恐怖したことだろうか。

得てして、コンピューターゲームにおけるゲーム体験というものは、画面の前にいるプレイヤーが画面の中のキャラクターに対して共感することで成り立っているところが大きいとわたしは考えている。

「共感性羞恥」という心理現象がある。比較的心理学用語の中でも一般的によく知られている言葉だが、これはテレビや映画の中、或いは目の前で人が恥ずかしい行動をしている時、それを見ている人もなんとなく恥ずかしい思いをしてしまう現象のことだ。

なんとも迷惑な脳の機能だが、歌劇にしても映画にしても漫画にしてもゲームにしても、人間は共感というインターフェースを通じて人の感情を動かそうとエンターテイメントを作り上げてきた側面があると思う。

画面の中のキャラクターが悪を打ち砕いた時、画面の前に居る自分も同じように嬉しくなる。画面の中のキャラクターが泣いている時、同じように自分も悲しくなる。画面の中のキャラクターとシンクロし、コンピューターゲームによって感情を動かされる。当たり前のようだが、これこそが至高のゲーム体験だと思う。

本記事はそんな至高のゲーム体験をさせてくれる、わたしが人生の中で片手の指に入る神ゲーだと思っている2Dベルトアクション+アドベンチャーゲーム「Katana ZERO」の魅力を伝える記事となる。

世界観表現に組み込まれたメタフィクション

さて、前章で共感によって画面の中のキャラクターと同じ体験が出来ることが至高のゲーム体験だという話を書いたが、しかしせいぜい一辺数十センチメートルの画面の中の、しかも絵のようで現実的ではないキャラクターに一心同体のように共感するのはなかなか難しいものがある。

そこで重要なものは"没入感"だ。要するに自分と画面の中のキャラクターとの心理的な隔たりを極力減らす事がカギとなる。その没入感に大きく影響を与えるのがメタフィクション表現だと思う。

コンピューターゲームにおいて、メタフィクション表現は無くてはならないものだ。
例えば「スーパーマリオブラザーズ」では、あと何回リトライできるかを表す残機と、今がどのステージを攻略中かがステージ開始前に必ず表示される。「ファイアーエムブレム」では地形にグリッドを表示させ、キャラクターの位置・攻撃範囲をわかりやすくしている。これらは物語や世界観を表現する上では不必要なものだが、プレイヤーが不快感を感じることなくゲームをプレイする上では必要不可欠なものだ。

しかし、「Katana ZERO」ではプレイヤーにゲームプレイ上必要なメタフィクション表現の多くを、世界観を語る要素として組み込んでいる。

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例を挙げると、こういった2Dベルトアクションゲームにはよくある"ステージ選択"はテレビデオで再生するVHSテープを選ぶ場面として描写されるし、"リトライ"は主人公の未来予知能力を使ったシミュレーションを繰り返しているという事になっており、クリアした場面だけが実際に起こした行動として描写されている。
また"ステージBGM"は主人公が任務中にカセットウォークマンで聴いている曲、という表現がされていたりもする。

快適なゲームプレイを実現する上で必要なものをできるだけ淡白なメタフィクションとしてではなく世界観の表現として組み込む事で、より一層の没入感が得られるように作られているのである。

アドベンチャーパートにおいても、没入感を高めようとする仕組みがある。
テキストログが流れ、会話の返答を選択肢で選ぶのは他のアドベンチャーやRPG作品でもお馴染みだが、「Katana ZERO」が他作品と違うのは会話の選択肢は相手の話を聞いている途中から表示される点だ。

相手の話を最後まで聞く前に選択肢を選ぶとどうなるのかというと、話を遮って勢いよく強い言葉を投げつける。時には会話を否定することもある。このギミックによって、会話テキストをプレイヤー自らの手で遮り、せっかちなプレイヤーの声を代弁する。格別の没入感だ。

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また、没入感の話からは少し逸れるがアクションゲーム部分についても非常にリッチな作りになっている。

2Dベルトアクションやメトロイドヴァニアではお馴染みの、ジャンプ攻撃・ステップによるパリィ・壁キック・銃弾の弾き返しなど、気持ちよくアクションゲームをプレイするのに必要な要素が全て詰まっている。

ただし油断は禁物。主人公は銃弾1発で死んでしまう所謂”死に覚えゲー”なので、後半になるほどパズルゲームに近くなり、大勢の敵集団の倒し方を考える必要がある。
非常にスピーディなアクションだが、反射神経に自信がない方でもドラゴンの能力を使って一定時間のスローモーションモードに入れば、銃弾の弾き返しなどは造作もない。

今視えているのは現実か?それとも過去の記憶か?それとも未来か?

「Katana ZERO」の主人公であるドラゴンは殺し屋を生業にしている男だ。
彼は未来予知と時間が止まって視える特殊能力を持っており、その能力によって幾つもの任務を遂行してきた。もちろん「ドラゴン」というのはマスコミや世間が付けた渾名であり、本名は不明だ。

彼に"仕事"を依頼するのが「カウンセラー」と呼ばれる眼鏡の男だ。カウンセラーは、その名の通りドラゴンに対してカウンセリングを行い、"仕事"を依頼した後怪しげな薬を注射する。
ドラゴンのトラウマのせいか、あるいはこの怪しげな薬のせいか、次第に彼は悪夢や幻覚を頻繁に見るようになる。

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シナリオについてはネタバレになるので触れないでおくが、一般的に漫画やゲームでは回想シーンにおいてそれが記憶であることを表す記号が大抵存在する。しかし「Katana ZERO」では"それが過去の記憶である"ことを表す記号は一切存在しない。

しかも彼は未来予知の能力を持っており、未来の記憶を見ると表現しても良いレベルのそのその能力も"混じって"しまう。

当然その結果、今視ている画面のこの映像が過去の記憶なのか、現実で今起きていることなのか、未来視なのか、或いはトラウマによる幻覚なのかわからなくなる。
ドラゴンも同じなのだ。

画面の中の主人公の記憶が曖昧になっている時、画面の前のプレイヤーである私たちもまたドラゴンの記憶の認識が曖昧になっていく。隅々まで作り込まれた没入感のある世界で記憶の認識が曖昧になるのははっきり言って気が狂いそうになる。しかしドラゴンもまた気が狂いそうになっている。

現在・過去・未来・幻覚、そしてドラゴンの心情とプレイヤーの心情がぐちゃぐちゃになる。

これこそが「Katana ZERO」がただの2Dアクションゲームでは無い理由であり、最も面白い部分であり、至高のゲーム体験なのだ。

まとめ

「神は細部に宿る」というがこの作品はまさにそれを体現した作品だ。

メタフィクションは隅々まで世界観を表現する要素に置き換わり、シナリオは綿密に編み込まれている。そしてアクションはスタイリッシュで爽快感があり、全ては精細なドット絵で描かれている。

気持ちの良いアクションと(良い意味で)気持ちの悪いシナリオ・視覚表現
その二つが大きな魅力
といえる。

ドット絵とはいえゴア・バイオレンス表現があるので万人に勧められるわけではないが、間違いなく不朽の名作だと言えるし、シナリオクリアまで10時間もあれば行けるので是非プレイしてもらいたい。Nintendo Switchでも発売されている。もしどハマりしてしまった際には、裏ボスに挑戦することをおすすめする。

ちなみに、本作は続編の代わりになる無料DLCが開発中であることが明言されている。期待したいところだ。

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