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心配とお節介の真実は信頼と自己愛の欠如〜救世主シンドローム〜
こんにちわ。
今日は私が長年、人との関わりの中で苦しんでいたことを書こうと思う。
それは心配とお節介癖で長年人間関係を拗らせていたことだった。
身の回りに何か勘に触る人、氣になる人、嫌いな人、モヤモヤする人はいると思う。そんな人はとても縁の深い人たちで、今私のカルマを断ち切ったり、エゴを成仏させるために一役買ってくれている魂だと捉えると、その人に対しての見方や関わり方が大きく変わっていくように思う。
このことに氣付けるようになってから、人との関わりが楽になった。
私のことを慕ってくれてよく思ってくれている男性がいた。
彼は私の体質改善プログラムを受けてくれたこともあり、私に恩を感じていて尊敬してくれていた。そして彼は私のことを同時に心配もしてくれていて、ことあるごとに大丈夫なのか?と連絡をくれていた。
それが、どのタイミングでなのか私は彼の心配して連絡してくれることに対して違和感と嫌悪感を感じていたのだ。怒りに近いような何とも言えない感情が湧いてきていた。悶々としながらも、私は嫌悪感を抱く彼に執着していた。いったいこの感情は何なのだろうと。
私は内観し、ノートに書き出したりしてはその謎を深掘りしていった。
するとまさに私自身が彼に対しても、そして他の人たちに対しても心配とお節介をしていたのだ。彼はその部分で完全に私の鏡の役割をしてくれていた。
問題のないところにわざわざ問題を作って、相手を可哀想な人として設定して、問題を私が解決して差し上げるという、相手を信頼せず可哀想な存在だとして扱っていた。そんな傲慢な行為を私は長年人間関係でしていた。
私は人間関係において、自分が相手の役に立たなければ関わる価値がないと潜在意識の深いところから思っていて、そのために自らを対等に扱わず、自分で勝手に孤独感を感じて苦しんでいたことに氣がついた。だから、人と話したあとは罪悪感などに襲われて疲れてしまい、相手にどう思われているのかが氣になり、関わることに臆病になっていった。
私はただフラットにお付き合いがしたいと思っていたのに、全く逆のことをしていたのは私自身だった。
このことに氣付けたことは私にとってとても大きな出来事だった。
それは、まさに母親が私に対して接する態度と同じだったことがわかったからだ。母親に悪氣がないことも、愛情をすごく持って育ててくれていることも伝わってはくるけれど、母から可哀想な存在で信頼をされていないと感じることが悲しかったということがわかった。
母がそんな風に人と関わる姿を長年見てきて、自分も同じような関わりをしていたこともわかってきた。そして、母がそんな関わりをする理由には救世主シンドロームが関わっていると思う。
これは無意識のうちに誰かの救世主となることで、劣等感や罪悪感、無価値観を払拭しようとする行為のことをいう。
母は熱心な新興宗教の信者であり、そういった行為を正当化できる環境にいるのではないかと思う。
そして、感謝されたりすることで、自分の存在価値を見出すのだ。
私は自分のことも相手のことも信頼していなかったことにショックを受けた。私たちは本来どんな境遇であっても、それは自分で選んで生まれてきた尊い魂であり、真我であり、完璧な存在なのだという認識と確信がなかった。
それは教え込まれてきた宗教観や、教育や道徳感など、大きな枠組みの洗脳なども大いに関係していることでもあるので、何か一つだけが悪いと決められる話ではないことでもある。
だからこそ、私たちは本来どんな存在なのかということを改めて問い直した上で、相手にも自分に対しても愛や信頼を持って接していけるんだと思う。
私はこの男性と母のお陰で心配とお節介のエゴが対消滅した。
でも私は本来お節介をしたいタチなのだ。これからは相手がどう思っても自分のためにやりたいと思うことをやっていこうと思う。
それはお節介ではなく思いやりという愛になると信じて。
いつもありがとうございます。