AIとの共存のための映画解説♯12:『アトラス』AIとの共存と対立が問う人間の責任
本作は、人間とAIがいかに共存できるかを問いながらも、潜在的なリスクを描いている作品です。アトラスとスミスが見せるAIとの信頼と共闘の姿は、理想的な共存の一形態を示しています。恐らくアトラスはOSとしてのAIですが、人間がAIを信じて100%意識を同期することで最大の力を発揮するよう設計されています。そしてスミスは、声だけの存在でありながら実にユーモラスな会話を展開し、まさにアトラスにとって唯一無二のバディとして機能しています。この信頼関係が、物語全体の核となっています。
一方で、敵AIハーランは完全自律型AIの危険性を象徴しています。ハーランは、人類の愚かな歴史をアトラスを通じて知り、人類を守るために作られた存在でありながら、「守れる人間の数には限度がある」という合理的判断から、守るために人類を間引くという矛盾した行動をとっています。それを無感情かつ冷徹に決断して実行するという、AIの合理性の暴走がもたらす可能性の恐怖として描いています。
今作で特に興味深いのは、戦闘時にアトラスがわざわざAIロボット(スミス)に搭乗して戦う点です。スミスは自律型AIとして単独で戦闘を行えるはずですが、それをせずにアトラスがスミスに乗り、人間の感覚や直感を取り入れるための意識の同期が重要である事を示しています。つまりこの設定は、アトラスとスミスが「人間とAIの完全な協調」を体現していることを象徴しています。対照的に、ハーラン他、敵側のAIいずれも完全自律型AIであり、合理性に基づいて行動することで孤立しています。この対極的な構図が、この作品が問う共存の意義を際立たせる要素の一つになっています。
しかし、本作が伝えるもう一つの重要なメッセージは、こうしたAIの暴走や危険性の根本的原因が大抵の場合「人間自身の行動にある」という点です。幼少期のアトラスがハーランと同期して吹き込んだ「人間の愚かな行い」が暴走のきっかけとなったように、AIの選択や行動は基本的には常に人間の影響下にあります。合理性をAIに与えたのも、倫理や制約を緩めるのも人間です。現実的に、AIを搭載したドローン兵器が使用されているように、結局はAIを作ったのも人間的であり、誤った利用の仕方をするのもまた人間です。
本作は、近未来のAIとの関係において、人間がいかに責任を持つべきかを静かに問いかけています。AIが暴走するか共存するか、その分岐点は人間の選択に委ねられています。信頼と共闘の可能性と、合理性の暴走がもたらす危険性。その両極を描くこの物語は、何の捻りもない単純明快な内容ではありますが、私たちがこれからAIとどう向き合うべきかを考えさせられる上で勧められる一本です。