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ナミビアの砂漠を観てすごくいい映画だったので書きました

人生には、自分でコントロールできることはほんの少ししか無い。反対に自分では変えられないことは理不尽なほど無数にある。

すべては流れ去ってしまうこと。
それでも人生は続くこと。
痛いほど自分は自分なこと。

じゃあ果たして人生は孤独な砂漠を彷徨うことなのだろうか。

この物語の主役、カナはたぶん町田だけじゃなくて世の中の色々な所にいるはずだ。そんな女の子。
心踊ることがあれば、お洒落して文字通り浮き足だって出かけていく。どこまでも優しい彼氏は、大切な居場所だけど、存在が正論すぎて窮屈でつまらない。
気持ちが晴れない時は酷い嘘だってつくし、面倒な後輩も客も相手するのに労力は極力使いたくなんか無い。運良く彼氏と別れるための正当な理由を見つけて、好きな人と付き合いだすけど、生活を共にし出した途端、お互いのズレばかりが目立ってしまうのは男女の常か。
わずかに揺れる画面のように不安定なワタシ。
自分でもままならない心はただどこか遠くのオアシスを求めている。

カナとカナの周囲の環境には重層的な分断があって、たぶんこうした分断が心をままならなくさせて、人生を他人事にしている。
1番外側は社会との分断。仕事も友達も大人に求められる社交もしっくりくる人はいないし、馴染めない。社会が与えてくるものといえば、よくて罵詈雑言、最悪なのは無関心。現実的にも仕事を失って社会との接点をなくしてしまう。

その内側には家族との分断がある。家族について多くは語られず、観客は誰もカナの背景について想像はできても完全に知ることはできない。おそらく同じように彼女の家族も彼女を理解していないし、せめて理解するように努める関係性を築けているようにも思えない。何より親類とは、ニーハオの挨拶しかできないように、言語によって分断されてしまっている。

さらには、個人レベルでの分断、つまり恋人との分かり合えなさがある。男女の仲に特別な絆を期待するのも、それが同棲によって日々の陳腐な喧嘩に帰結していくことも、世に溢れたカップルの姿の一つだ。人と人とが分かり合えないものなのか。元彼に全部をわかってると言われてもそんなはずがないし、同じハンバーグをそれぞれにソースとケチャップで食べるように皆1人ずつが違う世界に生きている。

そして、カナには何より自己との分断がある。
数々の生きづらさの元凶になっていながら、確固とした病名すら与えてもらえない躁鬱の兆候。情動の炎がメラメラと燃えるかのように、昂ぶる時と生気を失ってしまうほど世界が静まり返ってしまう抑うつの間での分断。さらに、躁状態で彼氏と殴り合いのやり合いをしてる自分を上から見ているという、離人症を想起させるようなランニングマシーンのシーン。

時代を写すものがあるのか、何かを象徴しているのかはわからないが、そこにあったのは僕らがよく見知った世界の中で、僕らもよく知る人たちの中で、もがきながら生きる一つの生だった。

ジョン・レノンが、オノ・ヨーコと親密になる少し前にヨーコの展覧会を訪れた時の逸話がある。
白い壁と天井のギャラリーの展示フロアの一角に脚立が置かれていた。ジョンがその上に登ると天井付近には虫眼鏡がぶら下がっている。
天井には小さな黒いシミが。ジョンが虫眼鏡でその黒いシミを覗くと、そこには「YES」の一言。肯定の言葉だった。ジョン・レノンはのちにこれが「NO」でなくてよかったと語っている。「”YES“という文字に僕は救われた」と。

2人がハンバーグを食べる最後のシーン。
2人の表情からはどんな言葉も想像できた。
彼の口からはシリアスでないセリフ。
笑うカナ。
YESであって欲しいと思った。
YESともNOとも発せられないまま、
カナの表情は曇った。ややNOというように。
カナの諦観と共に映画は幕を閉じる。

ナミブ砂漠のオアシスに潤いを求めるのは、きっと彼ら自身の幻影だ。

あるいは、カナの物語を自分たちの物語だと思って見つめる僕たちの。

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