夜露
あれは確か雨の木曜日だったか。
それとも晴れた日曜日。
そんな風にいつか今日のことも思い出すのだろうか。
新幹線に揺られて、窓の外を眺めると知らない人達の暮らす知らない家々が見えた。その屋根に灯ったあかりはなぜか寂しげに見えて、遠い昔に別れた人を思い出す。
車内では、ブコウスキーの「郵便局」を読んでいた。
労働によって枯れていく1人の男の人生の話だと思った。
その最後には少しの逆転がある。
それは小説を書くということ。
芸術への復讐なのか、昇華なのか。
忙しい日々にすり減らすだけの生活がやがて何かに繋がるのだろうか。
周りに求められることを果たすのに精一杯で、自分の中に残っている感情を見つけるのにも手こずるような。
今読むべきストーリーを読んだ気がする。
最近、部屋の整理をしていて昔もらった手紙や友達との何気ないプレゼントなんかが出てきて、過去はちゃんと過去としてそこにあることを感じた。
それがあったことも、それを大切にすることも日毎に忘れていく自分がいる。
たった半年や1年前のことさえも、今は状況が大きく変わっていて、現実感のない映像としてしか記憶していない。
思い出すべき匂いも感情も残っていないのに、その時に見ていた映像が、彼女の泣いてた顔や、最後の別れを意識しながら吸った朝の空気や、一緒に歩いていたキラキラ光る夜道が、ふと脳裏によぎると鈍感な切なさが込み上げる。
あの道を朝まであてもなく歩いていたら、どこかに辿り着けただろうか。
そうしたら、もう誰かを傷つけたり、泣かせたりすることもなく、分かろうともせずとも誰かと居れるだろうか。
昔、父親が自分が心から求めるものは理解ではなく傾聴だといっていた。
言葉もなく、前でも後ろでもなく、隣に立って同じ目線で同じ壁を一緒に眺めること、そうして時間もなく共に過ごすこと。それが傾聴なのだと。
もう元に戻れなくなってしまったあとでも、
そうやって誰かと過ごす未来を空想している。
そうやって誰かの横で静かに心を通わせることは可能なのだろうか。
自分ではない誰かの平穏を祈る。
でも同時に、生きているのであれば、波の立たない心なんてないとも思う。
傾聴にも主体と客体がいる。
誰だって愛するよりも愛されたいと願うものだ。
だからこそ、あの時2人は終わらない夜を歩き抜こうとしたのだろう。
疲れたら、道端に座って続きを話せばよかったのだ。
でも、目的地がないからこそ彷徨うことができたのだろう。
朝まで歩こうとして、ほんとうに朝が来てしまったら、どこかに辿りついてしまったら、なにか変わったのだろうか。それともただ、また終わりが新しいはじまりになってしまうだけなのか。
作家の描くストーリーのように力強い逆転を信じることは容易くない。
だから、なにも得られないけれど不完全なままで、
明けない夜を歩き続けるしかなかったのだと思う。
どこかここじゃない場所を求めて、理解されることを、愛されることを求めて歩く2人に朝が来てしまったら、美しい朝日の中に孤独が溶け出して、きっと元に戻れなくなるくらい泣くだろうから。わかり合えないことがわかってしまって。
それはとても残酷なこと、でも真実だと思うから。
越えられない夜の先で、あなたに平穏があるように祈る。