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言語化ってつまり、、、?

大学生って”言語化”って言葉大好きだと思う。

なんとなくカッコよく聞こえるし、実際に発表の場とかが増えるから思考を言葉にする機会もたくさんあるから、会話の中でもLINEでも多用する。

言語化って単純に私が頭の中で考えてることを言葉にして目に見える形にするだけじゃなくて、誰か第三者がそれを読んで私の考えを共有できるっていうところで重要で、価値のある行為だと思う。

けど、言語化って実際すごく難しくない?そんな単純じゃなくない?
こうやってnote一つ書くのにも、どんな言葉を選んだら私の言いたいことをできるだけ100表現できて、さらに相手に100近く伝えられるのかめちゃめちゃ考える。

今取ってる「翻訳文化論」という講義の中で”翻訳”という行為について考える機会があった。
trans: to or on the other side of, across⇨二つの異なるものの存在が前提
lation: the motion of a body from one place to another⇨二つのものの間を行き来するということ
つまり広義のtranslationとは必ずしも言語 対 言語である必要はないし、翻訳とは多様性のあるものを結び付ける行為である、と結論付いた。

シェイクスピアの『A Midsummer Night's Dream』を例に考えてみるともっとわかりやすい。ボトムというキャラクターがロバの頭をつけて登場するシーン。

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いろいろ前後は省略するけど注目してほしい2文は
"thou art changed.(お前変わっちまったな)”
"thou art translated. (お前変わり果てちまって ※訳者によっていろいろ)”
とシェイクピアが違う単語を使用しているところ。
changeも多義的に”変わる”を表現できる英単語ではあるが、このシーンのボトムに限って言えば、強調されてるのは、「外面は異なるものになる(見た目は変わってしまった)がボトムという本質は変わらない」ということ。

ってことは、”内在する思考とか感情を言葉で言い表す言語化”は、私たちが私たち自身を「翻訳」しているとも言える。

なるほど。

でもソシュールで有名な記号学のように、言葉なんて記号に過ぎないっていう意見も理解できる。

確かに、私たちは言霊みたいな言葉の持つ力を認識してるし、何百年も前に紡がれた言葉が自分の心に響くという体験も少なからずしていると思う。枕草子の冒頭(春はあけぼの)の暗唱なんて良い例。

言葉を使うことは整理して理解するという点では優れているし、もはや普段無意識のうちに行ってること。
でもそうやって”もの”を名前や言葉で持ってカテゴライズして捉えることが、逆に人を縛りつけて本質を見えなくしてるかも、、、?

言語化して整理したはずの私の思考が、もしかしたら言葉に言い表したことによって本当に思っていたこととズレが生まれてくるかもしれない。
そしてきっと遡ろうと思っても、
整理された言葉のもつ意味概念に縛られてしまって
私は何を本当に思っていたかにまで辿り着かないかも。

有り得る...。​


全然このnoteに結論なんてなくて、”言語化”って簡単に言うけどかなり難しいんじゃない?って再認識しただけ。

ただ”言葉”に限界があることを認識した上で、それでもこうやって言葉を使って表現するんだという姿勢でありたいと思う。

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