作品の重み 『斜陽』
『斜陽』太宰治著
を読んでみた。以下、私の目というフィルターと通して吐き出される言葉である。あしからず。
introduction
もっぱら小説といえばミステリーかサスペンスばかりを読んできたが、文学というものに対する自分のキャパを広げるという意味で”文豪”と呼ばれる方達の作品を読みたいと思ったため。つまりは、暇だったのだ。『歯車』と二冊、手に取り、文体が読みやすそうな『斜陽』を一冊目に選択。
about
お母さんと二人暮らしだった私(かず子)は、お金を理由に家を売り、伊豆の山荘で暮らすことになる。召集されその後行方不明であった弟、直治が帰ってくる。しかし、直治は荒廃した生活から抜け出せず、そんな中最後の貴族であったお母さんが結核により亡くなる。これをきっかけに、私は一度会ったことがある上原のもとへ行く。そこから帰ってきた私は、直治の自殺と、その想いを知ることとなる。上原との子を宿した私が、上原に手紙を書くところで物語は終わる。
result&discussion
文学作品にほとんど触れたことがない私にとって、この作品の良さ、あじ、というもののほんの表面にしか触れられていないのかもしれないが、美しい文章と言葉の選択、そして簡潔なストーリー。情景描写に込められた色の鮮やかなこと、そして知性溢れる例えの品格。なるほど、美しかった。母親が人間であるにもかかわらず、絶対的な美しさの象徴であること。”死”というものにフラットに対峙しようとしても、やはり世間的なマイナスのイメージが拭切れていないという人間味。貴族であるというプライドゆえの直治の機微。そのすべてが美しく、幻想的な世界であった。この退廃的な雰囲気を再現する現実世界の何かは存在しないのだろうか。
最後の貴族であるお母さんへの子供二人の異常なほどまでの崇拝の仕方、聖書の引用から貴族の対立構造としての賊人を表すのであろう蛇など、今の私には深い理解が可能でないこともあったが、それもまた嬉々として受け入れるべきことなのであろう。わからないことも、また読書の面白さなのであろう。
この作品を梅雨の雨の日に自室に閉じこもり、雨の音のAMSRを聴きながら読む。というなんとも現代的な楽しみ方ができるのも、また趣深い。
知識を蓄えた20年後くらいにもういちど読み返せる日がくると、また全く別の様相を呈した『斜陽』が目の前に現れるのかもしれない。
その日を迎えることを私の希望の地盤として、この世界を生きてみようと思えるのである。自然死という名の自殺を迎えないように。
では、次の機会に。