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#34 朝倉之館 一乗谷


 福井を訪れる目的が3つあった。1つは、東尋坊を一度は見ること。次に永平寺で坐禅の精神を知ること。最後は朝倉氏の足跡をたどることであった。一乗谷へは永平寺から車で20〜30分くらいだったと思う。永平寺も一乗谷も山の中にあるため、都市から走ってきた身からはどこか寂しく感じられた。
 ここには戦国時代の城下町が復元されている。武家屋敷や町人屋敷などが所狭しに、しかし計画的に整然と立ち並ぶ様はおもしろい。私にとって城下町とは地図上のものであったが、ここは復元度が高く、城下町とはこういうものだったのかと戦国時代に対する私の認識を大きく形成していく。
 また、実際に行くことでよりわかったことがあった。それは一乗谷の狭さである。この狭さは言葉で聞いてはいたが、いざ立って周りを見渡すことでそれを実感した。さっき説明した屋敷の背後には山が迫っている。一方で道路を挟んでその反対側の広場は朝倉氏の作った庭園らしいが、やはりそこの背後にもすぐ山がある。Googleマップでその長さを測ったところ、谷の入口の最も狭いところでは150mほどしかない。一流の陸上選手なら、16秒以内で走り抜けてしまう距離だ。これが一乗谷の特徴であり、防御に優れた城下町であった所以と言われる。

朝倉の館跡


庭跡

 ちなみに最も有名な分国法の一つである『朝倉孝景条々』には以下のように記されている。

一、朝倉館の外、国の中に城郭を構させ間敷候。惣別分限あらん者一乗谷へ越され、其郷其村には、代官百姓等計置かるべく候事。

『朝倉孝景条々』

 つまり、朝倉家の居城以外に、国内での築城は禁止され、所領のある者(家臣たち)はすべて一乗谷に移ることが規定された。一般的に戦国時代では、大名が治める国は広くとても一人では管理しきれないので、当然ながら家臣たちに管理分担をさせる必要があった。しかし、朝倉氏はむしろ家臣たちをみな一乗谷に集住させる命令をだした。なぜだろうか。いくつか理由が考えられそうだが、一乗谷の狭さを直接見てきた私はこの問いに一程度、答えられそうだ。まず、この狭い一乗谷という場所は家臣たちを押し込め監視するのには最適であったということ。戦国時代はいつ誰に裏切られるかわからない。たとえ、長年連れ添った家臣であってもだ。『朝倉孝景条々』に「朝倉館の外、国の中に城郭を構させ間敷候。」とあるのはやはりそうした気持ちがあったのだろう。

 と、こんなようなことを想像しながら一乗谷を歩き周った。一乗谷は繁栄したと伝わっているが、織田信長によって朝倉氏は滅ぼされてしまう。もちろんこの城下町も戦国時代で消失したため、いまは都市になっていない。平家物語で描かれるような盛者必衰の理が感じられるようで、とてもさみしい気持ちになったことを今でも覚えている。

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