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#9 平戸・長崎ー近世日本を生きた”異人”たちの足跡を辿るー
長崎への旅は最も印象に残った行先の一つです。長崎は様々な顔を持っています。明治時代では、官営事業としての造船所が三菱に払い下げられ、造船の町として栄えました。また周知のように、アジア・太平洋戦争の末期には原子爆弾が投下され、たくさんの方が亡くなった町でもあります。そして、出島や唐人屋敷が設置された国際港としても知られています。
今回は近世日本の長崎で暮らしていた「異人」たちにスポットをあてて旅を振り返りたいと思います。
平戸編
平戸のオランダ商館
平戸は佐世保からはバスで1時間30分ほどで、九州島の西端に位置する江戸時代初期の国際港でした。
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「異人」の中では徳川将軍の朱印状を携えた商人だけが交易を許され、中でもオランダやイギリスの商人たちは徳川家康に重用されました。現在、オランダ商館は資料館としてリニューアルされていて見学できます。内部では当時の様々な資料が豊富に展示されており、ケンぺルが著した『日本誌』や徳川家康がオランダ人に発給した朱印状などがありました。当時の人間たちの活動を伺いしることができるとても面白いところでした!
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オランダ人が残していったもの
平戸にはオランダ人たちの遺構が当時のままで多く残されています。遠い遠い異国の地で生活した彼らの生きた証が400年の時を経ても朽ちずに残り続けています。子孫たちは何を思うでしょうか。
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三浦按針の墓
塀を伝い歩き、石段を上ると徳川家康の外交顧問として活躍したイギリス人ウィリアム=アダムズの墓がありました。向かって右にはその妻MARY=HYN=ADAMSと1589.8.20に結婚したことを記念する碑がたってます。
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明人王直の館跡
写真がなくなってしまったのですが、平戸には王直の館跡もありました。江戸時代の人物ではありませんが、日本でいうと戦国時代に後期倭寇の頭目として名をあげた人物です。明の人間であった彼は平戸に拠点を持ち、海賊活動をしていました。ポルトガル商人をのせて種子島に辿りつき、鉄砲を伝えた船もこの王直配下のものだったことはよく知られています。平戸での活動があったからこそ生まれた歴史的瞬間でした。
王直の遺跡をまわり、平戸を後にします。
長崎編
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唐人屋敷
長崎には夕方に到着しました。カプセルホテルにチェックインし、外にでるとすでに暗くなっていました。夜ご飯を中華街で食べるため、繰り出すとこのような門がいくつかあり、そのうちの一つには「唐人屋敷跡」と書いてありました。
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学校の歴史授業で習った方も多いかと思いますが、これは江戸幕府が置いた唐人屋敷の跡です。特定の家を指すのではなく、清国人の居住地全体のことをいいます。当時は壁で囲まれ、中国人や日本人が勝手に出入りすることは禁じられていました。いわば中国版出島というような存在です。しかし、陸続きであることも手伝ってそのような決まりもなし崩しになっていったため、交流が盛んでいまだにこの地域では中国文化が色濃く残っていることがわかります(近くに中国風の寺院も多数あります)。長崎では肉食文化も早い段階で受け入れられます。
なお、この中華街では身近にある中華料理屋とは異なり、高級中華料理店が並びますので、価格は割高です。
夜の中華街を一通り歩いた後、カプセルホテルへ戻って安息の時間を過ごし、この日は眠りにつきました。
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出島
朝一で出島に向かいます。到着後、入館時間まで時間があったので手始めに、出島を一周歩きました。しかし、出島は「島」ではありませんでした(というのも島であることを勝手に期待していたのです笑)。長崎の都市化とともに海辺は埋め立てられ、ガッツリ町なかに存在しています。
ともあれ、出島に入場します。足を踏み入れると想像以上に狭いことに気づきます!オランダ商館の人間たちは遠い異国の地のこの狭さにストレスを抱えたでしょうね。まずそのことに思いを馳せました。
展示にはオランダ商館で働いた人々の生活が説明されていました。印象的だったのは江戸の人間たちが呼んでいた「おらんだ正月」というオランダ人の風習についてです。オランダ人はこの「おらんだ正月」を毎年1/1と12/25に祝い、オランダ人と懇意な長崎奉行の役人や遊女たちに塩漬けの肉やパン、バターなど西洋料理を振る舞いました。つまりこれ、ニューイヤーとクリスマスですよね。まさか日本人たちもこれがキリスト教関連行事とは想像もしなかったでしょうね。
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26聖人殉教・大浦天主堂
最後は隠れキリシタンについてです。大浦天主堂にたどり着いたのですが、隠れキリシタンに関する展示があり、胸を打たれました。
26聖人殉教は、豊臣秀吉が26人のキリシタンを処刑した事件です。キリスト教の布教が植民地政策に関わっているというサン=フェリペ号乗組員の証言が秀吉を激怒させた結果、フランシスコ会のスペイン人宣教師や長崎の信者たちは処刑されてしまったのです。その後、伴天連追放令、江戸時代には禁教令も全国に出され、キリスト教への弾圧が強まっていきました。江戸時代にはこの信仰が死の危険をもたらすにもかかわらず、キリスト教を伝えようとし、また信じようとし続けた人々がいました。彼らはどのような気持ちだったのでしょうか。唐突ではありますが、考えるヒントが言わずと知れた名作『沈黙』にあります。
その時、私は、ふとガルぺ山に隠れていた頃、時として夜、耳にした海鳴りの音を心に甦らせました。闇のなかで聞えたあの暗い太鼓のような波の音。一晩中、意味もなく打ち寄せては引き、引いては打ち寄せたあの音。その海の波はモキチとイチゾウの死体を無感動に洗いつづけ、呑みこみ、彼等の死のあとにも同じ表情をしてあそこに拡がっている。そして神はその海と同じように黙っている。黙りつづけている。(p104)
このシーンは島原の乱の後、ポルトガル司祭であった主人公のロドリゴが日本人信徒モキチとイチゾウの死に際して苦しんでいる場面です。暗い海の波音を反芻しながら、次のように続けます。
そんなことはないのだ、と首をふりました。もし神がいなければ、人間はこの海の単調さや、その不気味な無感動を我慢することはできない筈だ。
(しかし、万一…もちろん、万一の話だが)胸のふかい一部分で別の声がその時囁きました。(万一神がいなかったならば…)(p104-105)
この現実で起こっている苦しみに対して、神はあくまで「沈黙」し続けている。主人公は残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩しますが、神の「沈黙」ゆえに背教の淵に立つ内面がここでは描き出されています。
小説の話ではありますが、殉教に際した人々もこの司祭の心境になったのではないか。いや、それでも信じ続けたのではないか。大浦天主堂の教会に静かに座しながら、そう思いふけりました。
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長崎のまちを高台から眺めて
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今回は近世日本の「異人」の足跡をテーマに歩きました。この旅で当時の人間たちの生きていた証拠を見てきましたが、どれも情緒を刺激する場所ばかりでした。しばらくこの景色を望み、温かい春一番にあたりながら旅を振り返り、物思いにふけりました。
長崎はとても印象深いまちの一つです。