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乳児院、養護施設、暴力、刃。「僕、運がいいんです」/二


 二話目のインタビュー記事です。
生後5ヶ月の時に、親のDVや虐待によって乳児院に入った21歳の青年にインタビューした。彼の親権をもつ母親は、1シーズンに1回の面会もドタキャンするような精神的な不安定さが垣間見え、彼は乳児院を出た後も16年間児童養護施設で過ごした。養護施設で過ごしながら、彼は小・中・高校の生活が、様々な不調やトラブルにより通えなくなっていった。



一話目↓




ドラマを見て「親がいないから普通じゃないんでしょ」と言う小学生

 小学5年生の時、建城(タテキ)さんはイジメにあった。
"施設の子"と一括りにされることが多かった。

建城さん:「児童養護施設を舞台としたドラマ"明日、ママがいない"が当時、流行ってた。それを見て影響されたのか、"親がいないから普通じゃないんでしょ"とか、"養護施設ってこんな感じなんでしょ"と言われるようになった。オープニングの映像で、壁に4人の子どもが寄りかかるシーンがあって。似た姿勢でいたら、"施設の子だ"ってからかわれた」

 言葉の深みや理解がまだ未熟な小学生が浴びせる言葉とは、じわじわと大人になるにつれ侵食してくる。

田淵:「イジメは何年も続いたのですか?」
建城さん:「いや、一般家庭の子の中に、かばってくれる子もいて。僕を"施設の子"ではなく、"一人の建城"として見てくれて。凄く嬉しかった」

 "児童養護施設"という枠組みに強制的に入ってしまった人間にとって、そんな存在が一人いるってだけで、救われるのだ。どれだけ嬉しいことか。
 学校では"施設の子”。施設に帰っても"施設の中の大勢の1人"。
一般家庭の子の、家に帰ったら"親の唯一の子ども"の感覚を味わうことはできないのだ。

 "児童養護施設"のイメージは、一般家庭からしたら「捨てられた子達が集まった場所」という目で見られるのは必然である。
間違いではないし。
新規で児童養護施設に入る子の理由で、約4割は虐待だ。

 施設を退園していった先輩達が何かトラブルを起こしていたなら、地域の大人達がいつまでも覚えている。
いつまでたってもその事を話題にして、お茶の間を賑やかにしている。
だから悪いイメージがついてしまうと、払拭するのが難しい。

 タバコやお酒、無免許でバイクの運転、窓ガラスを割る行為をする先輩が、彼のいた施設でも過去にいたそうだ。
これらは犯罪行為である。
だからといって、施設に入所している子は心に傷を負った子どもだから多目にみよう。は絶対に違う。
"同情心"はとても危険な薬物だからだ。
彼が言うように、普通でいいのだ。
普通に怒る大人がいて、普通に説教っぽい大人がいて、普通に受容してくれる大人がいたらいい。
子の周りにどんな大人が渦巻いているのか。
子どもは運に委ねるしかないのが、時に不憫に思える。
ただただ、"普通の大人"でいいのに。


中学校で不登校になる

 中学1年生の時、建城さんは不登校になった。
色々な要素が重なり、学校に行けなくなった。
 雨の日の頭痛や、体操座りから立ち上がるだけで立ちくらみ・めまいを起こしたりと、日常生活に支障をきたす程の症状があった。
 医師より"起立性調整障害"と診断された。
思春期特有のもので半年程で寛解する子が多い中、彼は5〜6年間症状が続いた。
 幼少期から体は弱く、ストレスを感じやすい体質だった。
流行り言葉の"繊細さん"なのだろう。
彼はドラマや映画が見れない。ひどく疲れてしまうからだ。
 ストレスで不眠になったり、人混みの多いところから帰ってきたら発熱していた。
これらの症状によって、授業に出られない時が多かった。

 中学校は地域で有名な荒れた学校だった。
喧嘩は日常茶飯事。パトカーが学校に来ることも度々あった。
 その雰囲気にあてられた同級生がいたのだろう。
建城さんの友人に執ように絡む、いわゆるヤンキーがいた。
友人は施設の子でもなんでもなく、一般家庭の子だった。
優しい性格のためか気弱そうに見え、標的にしやすかったのだろう。
最初は、廊下でちょっかい出される程度だったが、徐々にエスカレートしていった。
「殴るぞ、てめえ」と言いながら友人の胸ぐらを掴む様子を見て、建城さんは止めに入った。
その出来事以降、いじめの標的が友人から建城さんに変わった。
 10人程のグループに、廊下で会うとドツカれるといった暴力を振るわれたり、絡まれるようになった。

田淵:「建城さんは体が小さい方ではないし、やり返したりはしたのですか?」
建城さん:「してない。ヤンキー達、可哀想だなって思ってた。いじめるしか自己主張の仕方を知らない。自尊心だけで生きてるのが可哀想。自分も可哀想な奴になりたくない。やり返すのは絶対しないと決めてた」

 ヤンキーに対しては怖いというより面倒くさいといった感じだったようだ。
 これらの要因が重なり精神的ストレスから、彼は学校にいけなくなった。


田淵:「母親は、不登校になった建城さんに何か言葉をかけたり、中学校に連絡したりはしていたのですか?」
建城さん:「"学校、いきなよ"って言われた」
田淵:「何か理由を聞いたりもなく、いきなり?」
建城さん:「一言目に出たのがその言葉。僕ロジカルに考えて言葉に出すことが得意で、冷静に学校に行けない理由を話した」
田淵:「母親はそれを聞いて謝ったり、共感してくれた?」
建城さん:「いや、ムスッとした顔になって無言。地獄の時間だった」

母親に助けを求めるなんて、一切できなかった。
きっと、よぎる事もなかっただろう。


 建城さんは学校に行っていない日々を、施設の中で過ごした。
よく事務室に行って、施設内で使用する工作物を作る手伝いをしていた。
 そこに園長先生がいた。
いつでも穏やかな、女性の園長先生。
反抗的な子達も、園長先生の言葉には耳を傾ける。そんな存在だった。
園長先生が、
「そろそろ、学校に行くために頑張ろうか」
と彼に声をかけた。
普段、そういったことを何も言わない人だったから、少し驚いた。
学校に行けない理由を伝えた。
「自分だけ辛い思いをするのは理不尽だ」
きっと、主にいじめに対して言ったのだろう。
彼のこの言葉を聞いて、園長先生は
「わかった」
と一言言って、受話器をとった。
中学校に電話をかけ、
「中1の子の口から、"理不尽"という言葉を引き出す学校は良くないんじゃないですか?」
初めて感情的になっている園長先生を見た。
ピリピリと、怒りの感情を感じた。
 施設には50人程の子どもがいる。
それだけ多くの子を抱えているのに、自分1人のために行動してくれたことが、涙があふれる程に嬉しかったのだ。

 この世には理不尽な出来事なんて山程ある。
彼が児童養護施設に入ったことなんて、まさしく理不尽だ。
 ただ、あの時の彼には、彼を思って怒ってくれる存在がいた。

 私が小学生の時、近所の男の子に「死ね」と言われた。
泣きながら家に帰り、家族に伝えた。
父と祖母はご近所付き合いを気にして「仲良くしなさい」と言ってきた。
祖父だけは違った。
顔が真っ赤になるぐらいに怒り、「そいつと二度と口をきかんでいい!」と言ってくれた。
 私はすでに泣いていたが、その言葉の後は違う感情から泣いていた。
男の子に言われた言葉なんて、もうどうでもよくなった。
 外界を意識せずにはいられなくなった大人という生き物が、自分を思ってみっともなく感情的になって怒る様子に、私は嬉しくなっていた。
 子どもは覚えている。
何を思い、何の言葉を向けたのか。
自分のために、大人がどんな行動をとったか。
ちゃんと覚えているのだ。
折角覚えててくれるのだ。
少しぐらい、自分の良心や正義に従って行動したっていいのに。
まあ、彼や私の毒親は、家族に対しての良心や正義がなかったってことだろう。



 この園長先生の電話後、中学校の先生の対応が変わった。
今までは、
「なんで学校こないの?来たほうがいいよ」
そう声をかけるだけだったのが、保健室登校や、授業でのプリントを用意してくれたりと環境を整えてくれた。
毎朝、教室か保健室どちらに登校するか、電話で聞いてくれた。
 いじめのきっかけになった友人は、毎日養護施設に来てくれた。
養護施設の先生も寛大だった。
養護施設の子じゃない友人を、起きれない彼の部屋まで案内してくれた。
後から聞くと、中学校の担任の先生が友人に、彼を連れてくるようにと声をかけていた。
 友人は中学を卒業するまで、遠回りをしながら毎朝来てくれた。
いじめの出来事に対する負い目といった様子は見せず、明るく彼を毎日迎えに来ていた。
一度だけ、いじめがあった時の出来事を友人と話した。
友人は、
「あの時助けてくれなかったら、学校に来れなくなってた。感謝してる」
と建城さんに言った。

建城さん:「普段そういう会話はしないし、真剣な顔で話すから、あの時は驚いた」
少し笑いながら、嬉しそうな声で建城さんは言っていた。
 彼はきっと、自分のした行動を後悔しなかった。

 母親以外の全ての人によって、彼は助けられた。



私立高校中退。定時制高校で生徒会長に

 学校に行くようになったら、メキメキ成績は上がっていった。
それでも、不登校だった時の成績が響き、高校受験は私立高校を選択することになった。
 だが高校で彼は浮いた存在だった。
周りの子とお金の感覚が合わなかった。
昼ごはんはコンビニ、親のお金で好きな物を買い好きな場所に行くことは、建城さんにとっては非日常だ。
 加えて、一人暮らしや大学進学のためにアルバイトをやっていた。
体調に合わせて月に2〜10万円ほど稼いだ。
そのためクラスの子と遊ぶことも難しかった。
自分は浮いた存在だと感じ、価値観が合わないと思いながらの生活は居心地が悪かった。徐々に精神的ストレスが溜まっていった。
 起立性調整障害の症状も続き、授業時間が足りなくなり高校を中退することになった。

 中退後は、定時制の高校に入学し直した。
在籍数1000人程で3部制に分かれている。
 学校では生徒会長をやることにした。

建城さん:「居場所がないと学校に行けなくなっちゃう気がしてた。中学では不登校を経験したし、私立高校は中退したから。じゃあ自分で居場所作ってしまおうってのもあって、生徒会に入りました」

 きっと、高校生だった時の彼にとって、大きな一歩だ。
沢山の人に囲まれている彼を容易に想像できる。

 建城さんの人生が前へと進み始めた。


 良い兆しを迎えたはずだったのに、母親によって一変してしまった。



次回タイトル

「18歳。児童養護施設が退園となり、母親との生活が始まる」





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