映画『関心領域』感想 ~ラストのジャンプと嗚咽の意味
「私たちは今、あまりに多くの罪なき人を巻き込む紛争に至った占領によって、ユダヤ人としての自分の存在とホロコーストが乗っ取られてしまった、そのことに異議を唱える者として、ここに立っている」
「10月7日のイスラエルにおける犠牲者だろうと、今もガザで続く攻撃の犠牲者だろうと、人間性を奪い去る行為によって犠牲者が出ている。私たちはどう抵抗すればいいのか」
(BBCニュースジャパン『アカデミー国際長編映画賞「関心領域」の英監督、ガザでの戦争について声明 受賞スピーチで』より)
第96回アカデミー賞でジョナサン・グレイザー監督はこのようにスピーチした。
5月17日に行われた『関心領域』×TBSラジオ「アフター6ジャンクション2」アフタートーク付き試写会に行ってきました。上映前に登壇した番組MCライムスター宇多丸氏は「笑っちゃいられない映画」だと語り、宇垣美里氏は「身動きが取れない状況で観てほしい」と語った。
オープニングは、黒の背景に白地の原題タイトル『THE ZONE OF INTEREST』が大きく映し出される。その白い文字が徐々に黒くなり、背景の黒との領域が分からなくなって映画が始まる。
よく晴れた日、緑も鮮やかな川べりで水遊びを楽しむ家族。お父さん、お母さん、子供たち。ボーっと見ていると幸せそうな(そして退屈な)ホームドラマのように見える。川で幸せな時間を過ごした家族は、大きな庭付きの自宅に戻ってくる。軍服に着替えるお父さん。家の壁ひとつ隣には大きな建物が立っている。それは、アウシュビッツと呼ばれている。
本作はマーティン・エイミスの同名小説を原作に、イギリス人監督のジョナサン・グレイザーが映画化。第96回アカデミー賞で国際長編映画賞と音響賞を受賞。アウシュビッツ強制収容所の隣で暮らす家族の、平和な日常を描く。
抜けない緊張感
とにかく映画の始まりから終わりまで緊張感が抜けない。観終わって思わず、深呼吸をしてしまった。理由は2つある。1つは、説明的なセリフがないので、ストーリーを理解するために画面に集中する必要があること。理解を促すような画はしっかり見せてくれるので、義務教育レベルの歴史的教養さえあれば、尻込みする必要はない。こちらの想像力を信頼してくれている監督だと感じる。
2つ目は、音である。この映画ならではの体験と言ってもいい。話とまったく関係なしに、叫び声や銃声が聞こえてくる。画面に映し出される物語は、家族の日常風景で平和そのもの。だから予測ができない。映像と音とのギャップに、心が疲れる。(ちなみに、観客をビックリさせるような演出ではないのでそこは安心してほしい。)
目も耳も息つく暇がない。何となくスマホの画面で観るような映画ではない。特に音に関しては、音響賞を受賞している意味がよくわかった。
聞こえてくる音に慣れてしまったのか、聞こえないふりをしているのか、家族は平然と日常を過ごす。そのミスマッチな態度に、登場人物との心の距離が離れていく。
日常への執念
その家には、ルドルフ・ヘスとその妻ヘートヴィッヒが、二人の息子と三人の娘、それと愛犬と使用人と共に暮らしている。ルドルフはアウシュビッツの所長を務めており、実際のアウシュビッツ所長・ルドルフ・フェルディナント・ヘスがモデルとなっている。
ある日、ヘートヴィッヒの母、おばあちゃんが訪ねてくる。母に自慢の家と庭を案内するヘートヴィッヒ。ペールカラーで整えられた壁紙やインテリア。きれいに手入れされた庭には、ツツジが咲いている。庭を案内しながら、無邪気な会話(本当に無邪気な)をしている最中、隣の建物がずっと見えている。まるで見張っているかのようだ。建物の煙突からは黒い煙が出ている。「連想」する情報が、目からも耳からも入ってくる。逃げ場がない。
翌朝、泊まっていたおばあちゃんが置手紙を残していなくなってしまう。夜通し聞こえる「音」に正常ではいられなかったのだろう。この状況を普通ではないと感じる人が現れてホッとする。
しかし、ヘートヴィッヒはヒステリーを起こしてしまう。自慢の家を侮辱されたように感じたのだろう。そんな時、ルドルフが昇進しこの地を離れる事になりそうだと話す。手間暇かけて作ったこの家を手放したくないヘートヴィッヒは、夫の単身赴任を提案する。アウシュビッツの隣であることなど1ミリも興味がなく、この家に注いできた情熱や時間がヘートヴィッヒにとって最も大切なことなのだ。その執念にゾッとする。ルドルフはひとり、家を出ていくことになる。
感情移入が出来てしまう
単身赴任の話が出るあたりから、少し感情移入が出来るようになる。ルドルフの人間っぽさが垣間見えてくるからだ。ナチスでの会議のシーンや上司とのやり取りは、社会人モノとして受け取れる。散歩中の犬に愛犬の姿をかさねて可愛がる姿に、彼にも情があるのだと思わせる。物語前半、心の距離が離れていただけに親近感が湧いてしまう。
個人的に「人間」を感じたシーンがある。ルドルフは自室に女性の使用人を招き入れる。(ここで女性が長い髪をバサッと下ろすだけで、全て説明しきってしまうのもスゴイ)すぐカットが変わり、ルドルフはひとり手洗い場に立ち、パンツを下げて「洗う」。その後ろ姿にどうしようもないほどの人間味を感じてしまう。(まるでTENGA使用後の自分じゃないか!)
彼らは悪魔なんかじゃない。ただの人だ。
ここで言いたいのは決して擁護ではない。彼らが特別な「悪」なのではない。私「も」同じだということだ。「仕事」にまい進するルドルフや家の事でいっぱいのヘートヴィッヒと同じなのだ。実際に悲鳴や銃声が聞こえてくることはない。けれども、知っているはずだ。世界で何が起きているのか。日々平和な日常をおくる事だけに執念を燃やしている。
不思議なラスト演出
映画の最後、ルドルフは施設の階段を降りる際中、嗚咽してしまう。階段横の暗い廊下の先に視線を向けると、場面が切り替わる。スクリーンには現代のアウシュビッツ資料館の開館前の様子が映る。あまりにも唐突な時間ジャンプに戸惑う。カーペットに掃除機をかけるおばちゃんから漂う圧倒的な日常感。その横、ガラス一枚隔てた先にはボロボロの靴たちがうず高くつまれている。
映画はここで終わらない。場面が戻り、もう一度嗚咽するルドルフの姿を映してエンドロールが流れる。現代にジャンプした演出にも驚いたが、場面が戻ってきたのにも驚いた。これはどういうことなのか。
もし現代の場面で終わっていたら「ナチスは滅びました。チャンチャン!」とただ過去を清算するだけの作品になってしまう。この映画が言いたいのは「過去にこんなひどいことがありました」ではなく、「まだ終わってないよね」と言いたいのだ。全ては過去のことと水に流すような未来には、この映画はたどり着かない。
よき未来にたどり着くまで、終わらない階段をグルグルと降り続ける。ループしているのかと錯覚し、めまいを起こす。ルドルフのあの嗚咽はそういう意味なのではないか。
映画『関心領域』 2024年5月24日公開
監督・脚本 ジョナサン・グレイザー
原作 マーティン・エイミス
出演 クリスティアン・フリーデル
ザンドラ・ヒュラー
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