つくる生活ー大豆とえだまめ
ずっとこの日のことを書こうと思っていたのだけれど、できてなかった体調不良気味の12月後半。
(TVで合唱バトルやっててついみて、また書けない。あ、オープンマイクに出たいって思ったのもきょうだった。29日。)
12月22日(日)、茨城の「いまここ畑」という、畑で繋がるコミュニティに行ってきた。
ほんとうに、ひらけた畑という感じで、森の中にてづくりのブランコやターザンロープ、シアターまである。
はじめましてだけど、温かく迎えてくれる畑の人々。呼ばれたい名前を書いて貼っておくようにいわれたので、シュールクリーム一座の人間メンバーの名前「おゆず」をかく。
餅をついたり、大豆の収穫・脱穀をしたり、しめ縄をつくったりした。
ひきこもり系脱力?にんぎょう人間が、なぜここにいるんだろうって不思議だったんだけど、開放的な自然の空間は都会に出掛けるのに疲れた人間にとって新しい発見になった。
この畑のお人は自給自足・自然と共に暮らす生き方を実践している。
土でかまどを作って、使い終わったらまたそれを自然に還元できるかたちにしてたり。
ガスが止まっても、生きられるんだって言ってた。
シホンシュギの社会の中でお金を稼いで生きていかなきゃならんことには絶望するけど
へなちょこ現代人間には、自給自足で生きていくのもハードル高いなって思っちゃう。
でも、もともと人はそういうふうに生きていたんだから、それを忘れてるだけなんだって。
つくる、って選択肢ができると、生活が、人生が、豊かになるよなあと思う。
前に、法定通貨の外側にある経済圏をテーマにした「ロマンチック金銭感覚」という映画を観た。地域で流通する通貨をつくってコミュニティ内でそれが循環するしくみをつくってる人たちを知った。
最低限のお金で生きるミニマルな生き方、とか、節約、とかは聞いたことあったけど、お金を新しく創るって生き方もあるし、あったっていいんだって思った。
いま当たり前とされてるようなことが、ほんとはそうとはかぎらない。
でも、それに疑問を持ちつづけて戦うことはきびしくもある。
心の声を無視することに慣れすぎているし、ちがうんじゃないかって言い続けるのは、孤独なことでもあるから。
でもわたしは、にんぎょうと一緒に、失われているいろんな感覚をとりもどしたいって思う。
手塚治虫先生の描いた「どろろ」の百鬼丸のように…たぶん、いろんな呪いがあって、身動きできなくなってるから。こうじゃなきゃいけない、っていう…。
(まあ、そんなにかっこよくはなれないんだけどさ。寂しくなったりもするシ…。)
じぶんにとって居心地のいい生き方を、探していきたいし、つくっていきたいし、それが誰かにとっての居心地のよさに繋がるなら、ウレシイ。
そのためにも、感覚を解放させることが、やっぱりテーマ。
「いまここ畑」は、定期的に誰でも来れるように開催されているようだけど、今回は特にイベント色が強かったみたい。(餅つきとか)
日常の暮らしとしてここで生活を営んでいる畑の人の感覚や気持ちには全然近づけていないと思うけれど、すこしでも身を置けたことはいい経験になったと思う。
何より、ここに集うこどもたちはほんとうにイキイキとしているなあと思った。
こどもだからといって禁止することのない空間。
畑のとうちゃんが言っていたことで印象的だったのは、「まず大人に楽しんでもらうことを一番に考えている」ということ。
まず大人が楽しむ→楽しんでる大人をみて子どもも育つ、からだそう。
この考え方は素敵だなと思うし、共感した。
なんか、接客業だったらお客さんファーストで、とか、子どもと大人だったら子どものために大人は我慢する、みたいな考え方が当たり前にあるように思うのだ。(子どもは弱い立場になりがちなのだとしても)
与える人は、じぶんに何より栄養を、与えていないと。そうじゃないと、壊れてしまう、のに。
わたしのしりあいの「うまのすけざむらい」も、大人と子ども、って分けて考えたくないと言っていて、インプロの父キース・ジョンストンの「大人は萎縮した子どもである」という言葉に感銘を受けていた。
わたしも、どうやったらこの、萎縮したこどもを解放させてあげることができるのかって考えてる。
そのために、哲学カフェとか、にんぎょうとか、やってるのかな。
いい大人って、なんなんだろうね。
P.S. えだまめと大豆の関係〜えだまめは、大豆の未熟verなんだって。しってた??
もとは同じなのに成長段階で呼び名が違うんだね👀別物だと思ってたよ。
大豆は萎縮したえだまめなのかなあ…。