いざジョージアの首都トビリシへ~精神性を感じる美しき教会に感動
オランダでフェルメールを堪能した私は、いよいよアムステルダムからジョージアの首都トビリシへ向かう飛行機に搭乗した。いよいよこの旅のメインディッシュが始まるのだ。
さて、ここまで『秋に記す夏の印象』を読んで下さっている皆さんもきっと一度はこう思ったことがあるのではないだろうか。
「ジョージアってどこ?」と。
そう、日本にいてもなかなか話題に上ることもないジョージア。
私が「今度ジョージアに行ってきます」と言うと、たいていの方は「アメリカの?」と返す。
たしかにジョージアと言えばアメリカが思い浮かぶのも無理はないと思う。私もトルストイの縁がなければジョージアのこともわからなかっただろう。
そして「アメリカではなくて、グルジアの方です」と言うと、「あぁ、あのワインのとこね!」と分かって下さる方が多い。旧ソ連時代にはジョージアではなくグルジアと呼ばれていた。その時のイメージが今も根強く残っているのかもしれない。
さて、地図をご覧になって頂ければわかるように、ジョージアはトルコの北東に位置し、そして北にはロシアがある。
ロシアとは古くからの因縁があり、2008年にはロシアとの戦争になっている。現在も国境地点は両軍がにらみ合い、緊迫した状況が続いているというのが現状だ。
こちらはトビリシの旧市街を見下ろした写真。ヨーロッパともイスラム圏とも違う独特な雰囲気がある。
ジョージアの宗教はジョージア正教。カトリックともプロテスタントとも異なる。
正教といえばよく東方正教会という言葉を聞くかもしれない。この正教というのは伝統的なキリスト教のあり方を守ることを重んじている。だからこそ「正しい教え(オーソドックス)」という意味で正教という名となっている。
そしてこのジョージア正教のように、「〇〇正教」というのが世界中にある。例えばギリシャ正教、ロシア正教、セルビア正教など。これは「〇〇」の部分に国の名前が来る。「〇〇正教」というのは「〇〇にある正教」という意味だ。基本的にはどの国の正教も同じ教義を信仰しているということになる。もちろん、厳密に言えば私が述べた定義はざっくりと言い過ぎているかもしれないが、ここではジョージア正教とは何かということの簡単な概略ということでご容赦願いたい。正教についてより詳しく知りたい方には以前当ブログでも紹介した高橋保行『ギリシャ正教』が入門書としておすすめだ。
こちらのツミンダ・サメバ大聖堂はトビリシで最も巨大な教会だが、これが建てられたのはなんと2004年というごく最近のこと。
ジョージアを案内してくれたガイドによれば、ジョージア国民は今でもとても信仰熱心でお祈りは欠かさないそう。たしかにガイド自身も教会に入る時は必ずスカーフを頭に巻き、祈りを捧げていた。そしてジョージアの教会に入ればいつも真剣にお祈りしている多くの人と出会うことになった。
大聖堂内部は未だに工事が続いていた。だがただ大きいだけの教会というのではなくて、祈りの雰囲気がたしかに感じられた。この後の記事でも様々な教会をご紹介するが、どの教会も神聖な空気が漂っていたことは間違いない。祈りの雰囲気がここまで感じられるのも珍しいと思う。ここに来る前に訪ねたパリでは残念ながらそのような空気は感じられなかった。きっと探せばそういう教会もたくさんあるのだろうが、私が行った教会は良くも悪くも観光地化してしまっていた。パリとジョージアの教会のコントラストには私も大きな驚きを感じることとなった。
そしてトビリシに来て驚いたことがもうひとつあった。
それがジョージアが想像よりはるかにアメリカナイズされていることだった。
旧市街の古い街並みを離れると、街の中心部に巨大なショッピングモールがあったり、ホテルや様々なサービスはほとんどヨーロッパと変わらない。一言で言うならばものすごく快適であった。慣れ親しんだ生活をそのまま享受することができたのである。チェーン的なオシャレなカフェがあったり、マクドナルド、ケンタッキーなどなど、困った時に助かる店があったのだ。
想像よりはるかに現代的なジョージアに驚いた私は、そのことをガイドに聞いてみた。
すると、ガイドはこう答えてくれたのである。
「2004年に政治体制が変わってから一気にジョージアは変わりました。それまでの旧ソ連的なあり方から経済成長を目指す方向に切り替えたのです。それまでは道路もひどくて観光客もほとんどいませんでした。街の中心部ですら道路が整備されていなかったのです。街の中心部の道路すらそうなのですから郊外はさらにひどいです。もちろん、観光客が来れるような宿泊施設もシステムも整っていませんでした。」
そしてさらに私は聞いてみた。
「思っていたよりロシア語が聞こえてきませんよね。私はてっきりロシア語がわからないとここで過ごすのは大変かと思っていました」
「基本的には私達はジョージア語を使います。そして今若いジョージア人はほとんどロシア語を話しません。ロシア語を使うのは旧ソ連時代の年配の方だけです。むしろ今のジョージア人からすると、できるだけロシアから離れたいという思いが強いです。第二言語の教育もロシア語ではなく英語を学ぶように今はなっています。ですのでロシア語はほとんど使われません。英語の方が私たち世代にとっては馴染み深いです。」
なるほど・・・。
ジョージアは2004年を境にがらっと変わったようだ。そしてロシア語がもはやほとんど使われていないというのには驚いた。もちろん、年配の方だけでなくともロシア語が分かる人はたくさんいるだろう。だが今やアメリカナイズされたジョージアにあっては、なるべくロシアから離れたいという思いがあるようだ。2008年のロシアとジョージアの戦争も大きな影響があるだろう。さらに言えば今回のウクライナ侵攻でその念はかなり強まっているようだ。
さて、ここまでジョージアとトビリシについて少しお話ししてきたが、皆さんいかがだろうか。
皆さんの中にはきっとこう思われている方もおられるのではないだろうか。
「それにしても、なぜジョージアまで来なくてはならなかったのか。ドストエフスキーとトルストイを学ぶためと言ってもそのつながりは何なのか」と。
実際私も出発前に何度となくそう質問されたものである。「何でジョージアなの?」と。
たしかにこれは不思議に思われるかもしれない。ドストエフスキーとトルストイを学ぶために行くなら普通はロシアだろうと。なぜジョージアなのかという必然性が見当たらない。
もちろん、私は数年前からロシアに行きたいとずっと思っていた。だがウクライナ侵攻によってすべては消えた。
であるならば私に何ができるだろうか。そんな折にちょうど読んでいたのがトルストイだったのだ。
このトルストイがジョージアのカフカース(今はコーカサス山脈と呼ばれている)と並々ならぬつながりがあった。しかも後の文豪としてのトルストイの原点と言ってもいいほどの体験をここでしていたという。
であるならばぜひそのカフカースを見てみたい。私はそう思ったのだ。
さて、この話自体は『秋に記す夏の印象』の序ですでにお話しした。
今回はこのトルストイとカフカースについてより詳しくお話ししていきたいと思う。それを知れば私がなぜジョージアまでやって来たのかということがよりクリアになるだろう。
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続きはこちらの記事にてお話ししています。
ジョージアとトルストイのつながりはあまり知られていませんが、実はトルストイのあの壮大な文学の原点がここにあったのでした。「続き」ではそんなトルストイとジョージアのつながりと、私がなぜはるばるジョージアを訪れたかを詳しくお話ししています。ぜひご覧頂ければ幸いです。
以上、「いざジョージアの首都トビリシへ~精神性を感じる美しき教会に感動」でした。
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