日記 新宿野戦病院についての断片的な色々
ドラマ「新宿野戦病院」がとても面白かった。
登場する舞/マイという女性が、NPO法人の代表でありながらSM嬢という設定だったこともあり、昔読みかけたままにしていた「ザッヘル=マゾッホ紹介」(ジルドゥルーズ)を読み返した。すごく面白くて、ドラマの読解にもとても意味があるなと思ったのだけど、きちんと批評文を書くほどの時間がないので、ものすごく簡単に(本書については簡単に書きすぎているので間違いもあるかもしれない…ご指摘ください)メモ的にここに残しておくことにする。
・本書は、マゾッホの作品を参照しながら、マゾヒズムとはサディズムの反転である、という説を否定し、両者が別の原理に基づくことを書き出したものである。
・重要なファクター、二者における「父と母」の問題。そして「自我と超自我」の問題がある。
サディズムにおいて、「母」は否定され、支配的要素である「父」は膨張してゆく。「父」と結びついた「超自我」(自我を律するもの)が、「自我」を追放しサディズムの犠牲者とする。
(サディズムの自我とは、犠牲者の自我である)
マゾヒズムにおいては、「父」は無化される。三重化される「母」に、「父」の全機能を転移し、この象徴秩序の中を、マゾヒストは振り子のようにいったりきたりする。
マゾヒストが叩かせるのは、「父」の似姿である。マゾヒストは、「超自我」を「自我」の目的に奉仕させる。
「マゾヒズムとは、いかにして、だれによって超自我が破壊されるのか、その破壊からなにが生まれるのかを語る物語」
という一文が印象的であり、ドラマにも当てはまるのでは?と感じた。
・ヨウコという女性の、マゾッホにおける「狩をする母」的なイメージ。
聖まごころ病院の「男性たち」をひとつの秩序の下に置く、女性支配の世界。(バッハオーフェン三つの段階における「デメテル的」世界。農耕的秩序)
・マイという「子宮的な母」と、ヨウコという「口唇的な母」を振り子のように行き来する、主人公の享。
そして、この「物語」を終わらせるのは、マイ。(子宮的な母、の両極にある「エディプス的な母」)
・マゾヒスト(享の父)啓三。医者の「家」に生まれ別の仕事をし病院を売ろうとする、彼が叩かせるものは「父」の似姿、それら「家」そのものなのではないか。
・男性たちの物語の裏に、「マイ/舞」の物語がある。彼女はサディストなのか?という疑問。
下記本書より引用。「マゾヒズムにおける拷問者の女性がサディストではありえないのは、まさしくかのじょがマゾヒズムのうちにいるからであり、つまり、かのじょはマゾヒズム的な状況にとって必要不可欠な部分であり、マゾヒズムの幻想が実現された要素だからなのだ。」
「女王様」という彼女は、男性たちの幻想の一部分である。一方で、彼女自身も、歌舞伎町という街において「父」の支配下にあることと闘っている。
(彼女が叩くものは、、それこそ「父」の似姿なのではないか…とふと思ったけれど、これは本書の言及するところではない)
面白いなぁ、と思うのは、「女性が強くなった社会」「男性性の弱さ」という現代日本の描かれ方と、マゾヒストが志向する「女性支配社会」というものの奇妙な一致である。
そして、それがそれだけで終わらずに、舞/マイの逡巡が描かれていることである。つまり、舞/マイは、享の「母」としてではなく、この物語を終わらせる役割を担い、もしかしたら、彼女の新しい物語を始める役割を担っているのではないかということである。
その上で、何よりもこれであろうな、と思ったのは、令和の今、超えるべきは「父」的な秩序ではなく、外来からやって来るわけのわからないウイルスなのだ、ということだ。
享は「父」をウイルスから救う。ウイルスと闘い、ウイルスに右往左往する人間たちと闘う。
(もはや、「超自我」とウイルスが合体している人間たちがいる、とも言えるのではないか…?これは、陰謀論的な言説に対して私自身が思ったこと)
マゾッホの物語に描写されたという、神話的な幻想世界とはほど遠い、猥雑で喧騒的な歌舞伎町の街を舞台にこの「物語」が描かれたということもとても興味深いな。現代における「神話」って何だろうか。
すごく面白かったのだけど、あまり言及されなかった作品のようにも思う。私自身も、もう少し考えて、またきちんと文章を書く機会を持とうと思う。