おいハンサム!が面白かったなぁ、という雑文
毎週の楽しみだった「おいハンサム!」シーズン2が終わってしまった。寂しいなぁ。
Xにちょこちょこ感想を書いたけれど、そのままにしていると散り散りになってしまうので、投稿したものに加筆する形でここに残しておきたいと思う。
食にまつわる、日常のささやかなシーンが繰り返される。
伊丹十三の「タンポポ」(こちらも大好き!)を彷彿とする作りだなぁと思っていたのだけれど、シーズン2はもっと一回一回のテーマに明確な一貫性があるなぁと。
例えば第一話。
他者からの視点、自分自身の価値(急にモテなくなる?)、焦りと人生の機微、が、別文脈のリサイクルやエコロジーとなんとなく重なる。
好きだったのは、由香が偶然ご近所の大杉さんと蕎麦屋で相席するシーン。
実家に暮らす独身の大杉さんへ勝手に抱いていたイメージ(勝手な「評価」とも言えそうだ)が、天抜き(天ぷら蕎麦の蕎麦抜きである)でお酒を愉しむ姿を見てガラリと変化する。
由香は、シーズン1で元彼大森にカツ煮(カツ丼の頭だけ、言わばご飯"抜き")を教わり、シーズン2で天抜きを教わる。教わるなんて言葉は大仰だけど、大仰にもしたくなる。「抜く」ことで豊かになる人生のありようが、一方の「エコ」の文脈と不思議に交錯する。
食べることへの「欲望」が肯定されているのも良い。
「欲望」、それは無難で健康的なものばかりではない。偏向的な趣向、かっこいい趣味を超えた馬鹿馬鹿しいような拘り。笑ってしまうような執着。それに振り回されてしまう愚かしさの滑稽。
美香と、会社の同僚ノブくんのホットドッグのシーン。
ノブくんのミスから生じた業務を、残業して二人で終わらせた達成感。終わったときに「ホットドッグ食べたい。薄いビールで」という言葉がポロッと出たことで、二人の頭はホットドッグモードに。しかしすでに深夜。探してみるとコンビニにホットドッグは無く。自作しようとしてもホットドッグ用のパンも無く…と、夜を徹して必死に探し続け、パンの配送車を全速力で追いかける二人(美香はいつものハイヒールスタイルである)の可笑しさ。と、観ている自分自身にもそういうところあるな、という共感…(共感なのか反省なのか…)
やっと出会えたホットドッグと缶ビール(「薄いビール」はハイネケンなんかを想定していたのだろうなぁと思うけれど、なるほど発泡酒らしいラベルが映っている。発泡酒の軽さ、疲れ果てた身体に沁み入ることだろう)
に、欲望のまま喰らいつく美香とノブくん。このシーン、凄いなぁと思った。
文化的視座に基づく「欲望」(ホットドッグとビールというひとつの「文化」)が、満たされないことによって先鋭化し、より単純で根源的で生物学的な「欲望」に収斂されてゆく感じ。「性欲」に近しいものも感じさせられるというか。二人の一夜の関係、という風にも見えてくる。(ホットドッグを齧りながら同時に空いている方の片手で缶ビールのプルトップを開ける描写なんてすごい)
しかし、勘違いしてはならないのは、このシーンは決して「象徴」ではないということ。そんなつまらない観方はしてはいけない。あくまで二人は、こんな夜中をホットドッグを探し走っただけで、その意味で、一夜の関係なのだ、という面白さである。
このホットドッグのシーンは、最終回で担々麺を求めて走る大森と渡辺のシーンと対になっているようにも感じる。
こちらにおいては、求めているのはぼんやりとしたイメージで店の名前も場所も曖昧である。大森はきっと、「手に手を取り合い」と大袈裟なことを思っただろう。相手に美味しいものを食べさせたい気持ちに、相手も同じ熱量で応えてくれるものと信じているから。
曖昧に「赤い看板」というイメージ(町中華と言えば赤い看板、から来てそうな情報なので、これも確固たる情報なのかは不明である。もしかしたら「美味しい担々麺」もイメージに過ぎず、実際に同じものを食べたら「ん?そこまで。」となるのかもしれない。)に基づいて、やっと見つけて入店した先に出てきたその料理は、求めていたそれとは勿論別物であり、何なら「担々麺ですらない。」
大森という人物のこの哀しい可笑しさを、渡辺は「これはこれでよい」と笑う。大森そのものの肯定にも思え、心強いなぁと感じる。
しかしこの渡辺の肯定が、イコール二人の関係を恋愛に結びつけるわけではない。当たり前である。渡辺は担々麺を求めていたわけでないし、食べさせようとする大森の気持ちに応えようと思っていたわけでもない。
おそらく、仕事の関係の延長線上に思っていただけなのだけど、それが恋愛関係に劣るのか?というとそれはまた別問題だな、というのが、「これはこれで」にあるような気もする。
ホットドッグのシーンと、似た構図で全く別のものが表出している。
ホットドッグへの目的の一致と「瞬間的」な達成。担々麺の目標不達成とその肯定。
この後、大森は渡辺に"きちんとした言葉で"振られるわけだけれど(なぜこう書くかというと、今までニュアンスでの断りが伝わらなかったから)、この二人はこの後も変わらず仕事での関係を続けるのではないかなぁと思わされる。
(…と勝手に書いてしまったけれど、映画版ではどうなるのかなぁ。)
大森は、源太郎お父さんの「ハンサム」を、反転させたような存在だよなぁとも思う。
決してカッコよく決まる人ではない(しかし他者に簡単に可哀想とは感じさせない。彼独特の確固たる哲学を持つ。他者から見ると、偏屈だったり変わり者だったりするのかもしれない)けれど、圧倒的に優しい。その優しさは、概念や理念ではないところで、様々な場面で他の生を救う。
シーズン2においていちばん素晴らしいと思ったのは、お母さんの出前寿司のエピソード。
三姉妹たちがまだ小さかった時期。終わらない家事に、遊びまわる子供たち。プツっと糸が切れたように全てを一旦止めて、出前のお寿司を取る。お茶を淹れて、ゆっくりと、自分だけの食事を取る。「いただきます」
この時から、月一回出前のお寿司を取るのがお母さんの習慣になっている。
このエピソードが、第3話の「当たり前に食べる」のテーマへ帰結してゆくことの素晴らしさ。
「自分へのご褒美」という言葉は嫌いと千鶴お母さんは言う。
それはご褒美じゃなくて、「当たり前に食べる」こと。忙しい育児の合間に、母が「腹ごしらえ」できる時間なのだ。
この出前寿司のエピソードは、第7話につながる。
風邪をこじらせ緊急入院してしまった千鶴お母さん。
里香がポロリと呟いた「お母さんのサンドイッチ食べたい」という言葉から、三姉妹たちはサンドイッチの思い出を語り出す。
お母さんのサンドイッチ。具がたっぷり挟まってて、パンの耳を切り落として、美味しかったね。あの大量のパンの耳を、お母さんはひとりで食べてたのだね。お母さんはいつも一人で、残ったものを食べて。私たちには美味しいものを食べさせて。と泣く三姉妹。
いやいや、と笑う父。
あのパンの耳を焼いたものをツマミに、ふたりで晩酌(白ワイン!)していたのだ、と明かされる。具をスレスレまで入れるのは、この後おつまみにした時に、耳の部分に風味を残すため。このためにサンドイッチ作りやめられないのよねー、というのが母の言。
この痛快さ!具も、ワインと合いそうなものばかり。オイルサーディンにシソ、なんて美味しそう。
「自己犠牲」に押し込められたものを、くるりと反転させる痛快さ。現実の複雑さ。
それは「お母さん」に押し込めたものでもあるような気がする。源太郎さんとワインを傾けるのは千鶴さん、だ。千鶴さんの幸せ。何にも振り回されずどこか達観しているようなお母さんは、しかしドラマの中でずっと「千鶴さん」だったのだなと思わされる。「お母さん」に押し込めていたのは視聴者である私でもあったのかもしれない。
パンの耳の件で千鶴さんと源太郎さんのふたりだけの晩酌が発覚したのちの、皆でのワイン晩酌から
あの"お母さん(だけ)の出前寿司"を、家族皆で共有するシーンへ。
ここにあるのは「時間」だ。三姉妹たちがそれぞれ大人になったからこそ、できること。
「日常を積み重ねる」というハンサム演説は、実はここに表出してるのだなぁとも思わされる。
食べること。それは生きるのに欠かせないこと。だからこそ過剰になったり変質したりしてしまいかねない。
「当たり前に食べる」を続けるのは難しい。それでも、健全に食べることに常に立ち返るのは人間としてとても大事なことだ。
人間に潜む、食への「欲望」を時に可笑しく、時に本質的に描く、この作品がとても好きだったなぁ。
食べることは、決して人生の添え物ではない。それは時に、人生(という船・背中…何かそのようなもの)を押す
と、私が思うのは、私自身の人生の核に食べることが食い込んでいるからだと思う。食への時間に執着し、食に救われて生きてきたからだと思う…
軽ーく書くつもりだったのにいつの間にか長文になってしまい、且つ大仰になってしまった。こんな大仰な文章、この物語に対しては野暮だよな、と思いつつ。書いておかずにはいられなかった。これも「欲望」だなぁと思いつつ。
起きてから、この文章を書き始め気づけば2時間。さすがにお腹が空いたのでご飯を作りにゆきます。健全なる昼食を。
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