【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、 そして生還[第2章]北朝鮮へ、一人旅
[車中で迎えた正月]
朝方の乗船はそれほど早かったとは覚えていないが、暮れの玄海灘だけに天気はよかったけれど、海上は噂に聞く通り、かなり荒れていて、船酔いする人が続出し昼食の注文も断る人も多数いた。私はカレーライスを頼んだが、救命具をつけたままだったので、スプーンを口に運びづらかったのを憶えている。釜山について行きの列車に乗り継いだ。義兄に、朝鮮に着いたら一等車にしたほうがよい、と忠告されていたので、その通りにしたところやはり一等車は座り心地がとても良かった。朝鮮に渡れば空襲の心配はないと思っていたので、汽車のなかではぐっすり寝むることができた。
朝日が昇って、いよいよ昭和二十年元旦である。
ボーイが食堂車の用意ができたからとふれ回った。ふと車両に、昔、父の会社での同僚であり、親しくして貰っていた中山弥一郎のおじさんに似ている人を見かけた。声をかけてみようと思ったが、朝鮮石油に移られて京城におられると聞いていたから、もし人違いだったら恥ずかしいと思い、またあちらは連れの人がいて、私に気付かない様子だったので、そのままやり過ごしてしまった。後で勇気を出して声をかければ良かったと悔やまれる。重要な思い出になったかもしれなかった。中山家の長男は私と同じ小学校の同級生でお姉さんと妹さんがおり、日本に引き揚げてこられてから、一度再会したことがあった。
食堂車は正月のテーブルでさすがに華やいでいた。日本式に御雑煮や口取りもついていてなかなかの御馳走だった。一等車のせいだったかもしれない。東京の父や母は二人で淋しく正月の膳に向かっているのだろうと思い、ふと恋しくなった。
京城に着いて行きの列車に乗り換えた。とても混雑していたが、若い娘の一人旅を、皆もの珍しげにジロジロとみていた。乗客は京城までとは違って朝鮮の人が多くなり、車両のなかはニンニクの匂いで一杯だった。耳なれない朝鮮語が飛び交い、それは喧嘩のようにも聞こえたりして、緊張が増していった。検札にきた車掌に、羅南まで行くのでその前に教えてくれるように頼んだ。早朝に着く予定なので、乗り過ごしたら大変だと心配したからだ。するとそのなかに乗り合わせた人たちが声をかけてくれ、自分たちは終点の清津まで行くから、羅南が近づいたら教えてあげると親切に言ってくれた。列車は予定より一時間近く遅れて着いた。重いリュックを背負いあげて、義兄が迎えにきてくれているはずと高鳴る胸をおさえて列車を下りたが…。
駅には早朝のせいもあって人影はさほどでもないのに義兄の姿がみつからない。うろうろする私の姿をみて一人の憲兵が不審に思ったのだろう、「どうかしましたか」と声をかけてくれた。私がわけを話すと、「私も隊に帰るので、官舎を捜してあげるからついて来なさい」といってくれた。まだ若そうな兵隊さんだった。道は雪が凍りついてカチンカチンだった。氷の上など歩いたことのない私は足をとられまいとしながらも、重いリュックと両手に荷物を持っていたのでバランスがとれず、何べんも氷の上でしりもちをついた。
若い憲兵は私より数歩前を歩きながら、私が転ぶたびに立ち止まって待ってくれたが、荷物は持ってくれなかった。お互いに若かったので照れくさかったのだろう。私が持っていた官舎の住所(羅南本町八十五号)の紙切れを受け取り、官舎の番号を照らし合わせていたが、「ここです」といって挙手の礼をして、すたすたと行ってしまった。私も深く一礼をした。安堵したせいか、名前を聞きそびれてしまい後悔した。(つづく