酔歩人(ランダムウォーク・マン)

野球やテニスなどのスポーツや、The Beatlesから筒美京平メロディまでを愛する昭和生まれのrandomwalk manです。

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最近の記事

【連載小説】俺たちの朝陽[番外編・哲彌の酔歩記2]カンパリソーダと凍(し)み豆腐〈前篇〉

【プロローグ】  大都会の中心地にあるのにそこだけが置き忘れられた、吹き溜まりのような一角で餃子屋『ヒゲ』に集まり、新宿区の早朝野球チーム『27時』に参加した面々のひとり哲彌は、20代の初めから荒波に揉まれながら歩き出していた。 カンパリソーダと凍(し)み豆腐  哲彌は、最初に勤めていた広告会社を辞めてから、一年ほど経ったろうか、やっとコピーライター養成所からの紹介で、広告制作会社に就職が決まった。    そこは、日本宣伝美術会(日宣美)で特選を獲った著名なグラフィック

    • 【連載小説】俺たちの朝陽[番外編・哲彌の酔歩記1]鈍色(にびいろ)の雲〈後篇〉

      【プロローグ】  大都会の中心地にあるのに、そこだけが置き忘れられた、吹き溜まりのような一角で餃子屋『ヒゲ』に集まり、新宿区の早朝野球チーム『27時』に参加した面々のひとり哲彌は、20代の初めから荒波に揉まれながら歩き出していた。  最初の会社を辞めた後、様々なアルバイトをこなしてきたが、その中で楽しかったのは、大学の友人に紹介された仕事で、スーパーや大学の生協の店先を借りて、「世界の木の実」と銘打った店頭販売だった。朝、親方の元へ行き30種類ほどの木の実を1種類ずつ1斗

      • 【連載小説】俺たちの朝陽[番外編・哲彌の酔歩記1]鈍色(にびいろ)の雲〈前篇〉

        【プロローグ】  大都会の中心地にあるのにそこだけが置き忘れられた、吹き溜まりのような一角で餃子屋『ヒゲ』に集まり、新宿区の早朝野球チーム『27時』に参加した面々のひとり哲彌は、20代の初めから荒波に揉まれながら歩き出していた。 「兄(あん)ちゃん、仕事あるよ」  二日酔いのため、新入社員の哲彌は会社での朝礼もそこそこに酔いを覚まそうとして、近くの公園のベンチに座り身体を「く」の字にして両足の間に顔を入れて眠っていたところ、そこに声をかけてきた男がいた。哲彌が目を覚まして

        • 【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、 そして生還 目次

          【目次】 [第1章]十九歳、北朝鮮へ[母に見送られ…] [第2章]北朝鮮へ、一人旅[車中で迎えた正月] [第3章]感動の再会[極寒の軍隊の町・羅南] [第4章]空襲、新型爆弾…[忍び寄る戦火] [第5章]姉の手記〈阿部玲子記〉[生後五十日の赤ん坊を連れて逃走] [第6章]南へ、南へ[地図なき道を彷徨う] [第7章]洋服店に住み込み[興南の町へ] [第8章]正月の祝膳[五合の御飯を炊いて思い切り食べてみたい] [第9章] 闇船の噂[自動小銃の乾いた音]  [第10章]母さえ逃

          手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、   そして生還[第12章]あとがき

          [道中に会った人びとに助けられたことは生涯忘れられず、感謝の気持ちで一杯です]  北朝鮮からの脱出行を半世紀以上たった今になって、書き留めておこうと考えたのは、二年前の平成十四年九月十七日の小泉首相の第一回訪朝がきっかけでした。以前より家族からも勧められいたこともあり、いつかはと思っていたのですが、五十九年前の出来事を今こそ書いておかねばと決心しました。  戦争体験談は今までにもたくさんありますが、北朝鮮から日本海側からの脱出の話は数少ないと思い、人生八十年の一頁ではあり

          手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、   そして生還[第12章]あとがき

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第11章]妹の手記に寄せて

          [困難の中で生きようとする人間の果てしない力]   十九歳の妹洋子が、現在とは異なる事情の中、列車と船を乗り継いで、北朝鮮駐在の私の許に一人旅して来てくれました。つわりで苦しむ私には、妹の手助けがどんなに心強かったことか。私が無事長男を産んで順調にいけば、お手伝いを終えて帰国する筈の洋子に、終戦の憂き目を味合わせ、「北朝鮮からの帰還」というとんだ目に遭わせてしまいました。  手記に登場する亡夫昌治も、敗戦後ソ連の捕虜となった体験を「遥かなるボルガ」という一冊の本にまとめま

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第11章]妹の手記に寄せて

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第10章]母さえ逃げ出す姿で

          [海中の三十八度線を越えて…]  港外に出たらしいが、海はひどく荒れ小さい船は波にもまれ続けた。三日三晩くらいかかって何とか三十八度線を越えたと船頭は言ったが、すぐにここで全員船を降りろという。自分たちは闇船だとわかるとたいへんなので、そこはまだ海のなかなのに降ろされ、そして船は全速力で帰っていった。放り出されたのは、というところだった。足は底についたが胸まで浸かる深い海のなかで荷物を頭に載せ、いくらかでも濡らさないようにして岸までたどり着いた。姉は赤ん坊を山歩き用のリュッ

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第10章]母さえ逃げ出す姿で

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、そして生還[第9章]闇船の噂

          [自動小銃の乾いた音]  洋服店にはよくワンピースを頼みにくるニコラエバという、ソ連将校の奥さんが勗君を見て、ほっぺが痩せているから自分のうちへ来いという。姉が勗君を連れて行くとお茶を御馳走してくれた。ソ連の将校といえど、食料事情はあまり良いとはいえなかったのに、お乳が出るようにたくさん食べさせなさいといって、「クシクシダワイ(たくさん食べさせなさい)」と言って黒パンにジャムをつけてくれ、ブドウ糖の塊をなめながら飲む紅茶もすすめてくれたそうだ。そんな時、ミシン油がないためミ

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、そして生還[第9章]闇船の噂

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第8章]正月の祝膳 

          [五合の御飯を炊いて思い切り食べてみたい]  店の仕事も順調になった頃、もといた日本窒素の寮で別れたままの友だちの安否が気になって尋ねてみることになった。峠越えなので往復二時間の予定だ。久しぶりの再会で皆喜んでくれたが、発疹チフスがここでも流行して、何人かが罹っていた。積もる話もあるが長居はできなかった。私一人ではなかったからだ。途中、ソ連兵とも行き交うので、勗君を背負って行けば私も安全という思いと、勗君のおりにもなるという理由でオーバーをネンネコのようにかけて着て行ったの

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第8章]正月の祝膳 

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、 そして生還[第7章]洋服店に住み込み

          [興南の町へ]  十一月半ば頃、が降ることが多くなり、飢えと発疹チフスで次々と亡くなる人が増え、このままでは我々も同じ運命になるのでは……と、じっとしてはいられない焦りがでてきた。ちょうどその頃、日本人が大勢いた関係で、日本人の世話をするためにできた自営団体の『日本人世話会』で人手を募集していることを知った。わずかな賃金だったが体力に自信があったから、すぐに応募した。仕事は、二人一組でモッコかつぎによる広場の整地作業だった。軍手だけの支給で泥をかつぐのは想像以上に大変だった

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、 そして生還[第7章]洋服店に住み込み

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第6章]南へ、南へ

          [地図なき道を彷徨う]  満州国境のの麓の白岩区の国民学校で、一応落ち着いたようだったが、ラジオのニュースを聞いた人からの情報で、ここで初めて日本の敗戦を知ることとなった。軍にいた兵隊は武装解除を受け、朝鮮の保安隊に軍刀と鉄砲を差し出し、丸腰になるとどこかに連れて行かれた。学校に着いた我々は軍の階級ごとに場所割りが決められ、私たちは赤ん坊がいるとのことで一段と高い教壇を割り当ててもらった。そこで炊き出しが行われ、おにぎりが分配された。おかずは沢庵。ドラム缶でお風呂も沸かされ

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第6章]南へ、南へ

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、そして生還[第5章]姉の手記〈阿部玲子記〉

          [生後五十日の赤ん坊を連れて逃走]  八月十三日正午頃、隣組の伝言で「陸軍官舎の家族は一時、山の中へ避難するために、当座の入用品を持って羅南駅に集合するように」とあり、大急ぎでリュックサックに赤ん坊の衣類、ミルク(新生児用に配給になったもの)と、山の中は寒いといけないと思って、毛布やオーバーも入れた。  妹は雨具や赤ん坊のおむつを洗うためのブリキのかん(バケツ代わり)に当座の食料品などをつめ、その他の身の回り品を登山用の大きなリュック(カーキ色の生地が密で防水にもなってい

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、そして生還[第5章]姉の手記〈阿部玲子記〉

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第4章]空襲、新型爆弾…

          [忍び寄る戦火]  その頃、父の弟である叔父・阿部の戦死が東京より知らされた。祖父母(父たちの両親)が早く亡くなったので、父は自分の弟の父親代わりだった。日本郵船の外国航路に乗っており、戦争当時は物資の輸送船に乗務していたところ、台湾沖で、アメリカの潜水艦によって撃沈されたという。  叔父と最後に会ったのは、両親と姉と義兄の結婚式を家で行った日の二日後だった。父と母と新夫婦が義兄の実家のある長岡へ結婚の報告のために行き、私一人が留守番をしていた時、突然訪れたのだった。叔父

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第4章]空襲、新型爆弾…

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、 そして生還[第3章]感動の再会

          [極寒の軍隊の町・羅南]  確かに表札に間違いはなかった。恐る恐る「こんにちは」と戸を開けると、なかから二人がころげるように出迎えてくれて、姉と私は抱き合って泣いてしまった。その時の姉は、私がまわした腕が余ってしまうくらい細かった。義兄は一列車前に迎えに行ったものの、私が降りて来なかったので列車が違ったのかなと思って帰って来てしまったのだと言う。私の乗っていた列車が一時間あまり遅れてしまったので、予定時刻ちょうどくらいに着いた列車と間違えたのだということだった。列車のダイヤ

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、 そして生還[第3章]感動の再会

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第2章]北朝鮮へ、一人旅

          [車中で迎えた正月]  朝方の乗船はそれほど早かったとは覚えていないが、暮れの玄海灘だけに天気はよかったけれど、海上は噂に聞く通り、かなり荒れていて、船酔いする人が続出し昼食の注文も断る人も多数いた。私はカレーライスを頼んだが、救命具をつけたままだったので、スプーンを口に運びづらかったのを憶えている。釜山について行きの列車に乗り継いだ。義兄に、朝鮮に着いたら一等車にしたほうがよい、と忠告されていたので、その通りにしたところやはり一等車は座り心地がとても良かった。朝鮮に渡れば

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出、  そして生還[第2章]北朝鮮へ、一人旅

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出行、 そして生還 [第1章]十九歳、北朝鮮へ

          【はじめに】  私の母親は19歳だった終戦前年に、つわりの酷かった姉を助けるために北鮮(当時は朝鮮半島を北鮮、南鮮という分け方をしていた)に渡っていた。  1945年8月、終戦を知ったソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻して来たため、満州との国境近くの北鮮にいた母親は、ソ連兵から逃げるため、姉とその生まれたばかりの男の子を連れて、道なき道を他の日本人家族らとともに、あてどない行軍を続けたという。途中何人もの人が行き倒れた。あまりに多くの人の死に行く様を見たため

          【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出行、 そして生還 [第1章]十九歳、北朝鮮へ