【手記】昭和21年、北朝鮮からの脱出行、 そして生還 [第1章]十九歳、北朝鮮へ
【はじめに】
私の母親は19歳だった終戦前年に、つわりの酷かった姉を助けるために北鮮(当時は朝鮮半島を北鮮、南鮮という分け方をしていた)に渡っていた。
1945年8月、終戦を知ったソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻して来たため、満州との国境近くの北鮮にいた母親は、ソ連兵から逃げるため、姉とその生まれたばかりの男の子を連れて、道なき道を他の日本人家族らとともに、あてどない行軍を続けたという。途中何人もの人が行き倒れた。あまりに多くの人の死に行く様を見たため、完全に感覚が麻痺して、死というものに対する感情を失ったという。
なんとか奇跡的に生き延び、3人で麓の北朝鮮白岩区にあった日本の国民学校に落ち着いた時、ラジオのニュースで日本の敗戦を知ったという。
それからは戦前浅草で奉公していたという北鮮の洋服店の店主に匿われるようにして姉妹で住み込みとして働き続けていた。そして最後には、いわゆる闇船、密航船で北鮮の港から小さなスケソウダラの漁船の船底に押し込まれながら南鮮に行き、そこから日本に帰国するという大変な経験をしていた(註)。
戦争体験者は、その壮絶な体験故になかなか自らの経験を話すことがないと言われています。私がそのことを聞いた十代の頃、「それは何か記録に残すほうがいい」と言いましたが、母も詳しいことを話することもなく月日が経っていきました。
そんな時に、当時の小泉純一郎首相が2002年(平成14年)に訪朝したことをニュースで聞いた母は、沸々とその記憶が蘇ったらしく、文章に認めることを始めました。戦争の悲惨さを若い人に知ってもらいたかったという思いがあったと思います。姉との記憶を擦り合わせながら纏めたものを、私の会社から母の手記として上梓しました。
中国からの帰還者の記録は色々と出版されていますが、北朝鮮からの帰還の記録はとても少ないので、若い人たちにも知ってもらおうと思い立ち、noteに連載することにしました。
(註)この間の事情は、昭和二十一年、北鮮からの脱出行『生還』谷内田洋子著(国立国会図書館蔵)に詳しい。http://rnavi.ndl.go.jp/books/2009/04/000008144365.php
[母に見送られ…]
昭和十九年十二月二十八日、近頃頻繁になった米国のB29爆撃機の空襲で、昨晩に続き今晩も夜中に起こされ、明け方までサーチライトが夜空に交差し、近くの高射砲陣地から発射される砲弾の音が耳を劈(つんざ) いた。私の住んでいたところは、現在の東京の大田区久が原でまわりはすべて住宅地だった。東京では、そのころ空襲が始まったばかりで、防空壕などはなく、もっぱらの焼夷弾(しょういだん)の延焼から家を護る防火訓練だけだったので、空襲警報が解除されるまで緊張が続き、体が冷え切り、毎晩寝不足なのに布団にもぐり込んでもなかなか寝つけなかった。それは、明日から始まる北朝鮮(当時は北鮮、南鮮といういい方をしていた)へ出発するという興奮と緊張のせいもあった。そのなかで、母が台所に立つ音がし始めた。
十二月二十九日の朝、父と母と私が朝食の膳に向かって、どんな会話を交わしたかは記憶にはない。池上線の千鳥町から蒲田へ、そして京浜東北線で東京駅までは、有楽町にある会社(日本石油)に勤めていた父が付き添い、見送ってくれることになっていた。
私は母の願いがこめられた、数々の土産物の入った重いリュックサックを背負い、両手に風呂敷包みといういでたちで家を出ることになった。風呂敷のうち一個は、名古屋の姉に届けるものだった。風呂敷包みは、東京駅で汽車に乗るまで父が持ってくれた。家を七、八mくらい出たところで、下駄をつっかけながら走ってくる音に、ふと後を振り向けば、母が割り箸をもって追っかけて来たのである。弁当に入れ忘れたと言い残すやいなや、顔を覆って小走りに戻っていった。別れがつらかったのだろう。
当時は、汽車に乗って何処かへいくといってもなかなか切符が買えなかったが、私は運良く女学校(東京府立第六高等女学校、現在の都立三田高等学校)時代の親友の本橋恭子さんのお父様が、国鉄にお勤めだったので、やっと下関までの切符を世話していただけたのである。彼女とは、卒業までの五年間いちども組替えがなかったこともあり、大の仲良しだった。
当時、東京―下関間は国鉄の東海道線で一泊二日の長旅、十九歳の私にとって、生まれて初めての大旅行であったが、そもそも、朝鮮半島へ渡ることになったのは、姉・玲子を手助けするためだった。
義兄・昌治は北鮮(前出にある通り、朝鮮は当時、日本の統治下にあり、北鮮・南鮮と呼ばれ、終戦後に三十八度線が引かれ、現在の体制になった)の司令部の兵事部に勤務していたのだが、昭和十九年六月に実父の死去による葬儀に出席するため、一時、東京に帰っていたところ、かねてより約束のあった姉との結婚を早めるかたちで、その休暇中に結婚式を挙げたのだった。式といっても久が原にある近くの八幡神社で「固めの盃」をかわすくらいの簡素なものだったが、結婚写真だけはと思い、当時、有名だった半蔵門の東條寫眞館に、私が頼みに出向いて撮ってもらったことを覚えている。そして姉たち夫婦は帝国ホテルに一泊してから、朝鮮に渡り、官舎を支給されて新婚生活を始めたのだった。
義兄は、大学を出て東京製鉄株式会社のサラリーマンであったが兵役のため、いったん新潟の新発田の師団に入隊したのち羅南指令部に配属され、そのなかの兵事部に勤務していた。十一月になって姉の妊娠がわかったが、姉は重い悪阻(つわり)に襲われたのである。日に日に食事ができなくなって、義兄からの手紙がくる度ごとに、衰弱してゆく姉の様子がしるされているのをみて、両親は居たたまれなくなって現地のオモニ(女中さん)を雇ったものの、食事が合わず、私の出番になったのだ。義兄と姉との結婚は、父親同士が新潟商業高等学校以来の親友で、新潟県長岡の高橋家より次男の昌治が、私たち阿部の家へ養子にくる約束ができていたのである。
その日の朝九時頃の東京駅出発だったが、浜松あたりで空襲警報が鳴り、どこの駅かわからないが一時停車し、夕方、名古屋についた。名古屋のホームには、長姉の昌子が子供三人を連れて出迎えにきてくれていた。背中にしげみ(一歳)をおんぶして、豊(四歳)と小京(六歳)の手を引いていた。感激で涙、涙。
母から頼まれていた、砂糖の代用甘味料(さつまいもから作ったいも飴の原液)の入った一升ビンと食料を汽車の窓から渡して別れた。当時、名古屋も空襲がひどいなか、汽車が遅れたのに小さい子供を連れてずっと待っていてくれていた。その後、長姉たちは愛知県の小牧に疎開していたが、名古屋の振甫町の三菱電機の社宅(借り上げの一軒家)は焼夷弾によって消失してしまった。
再び列車は京阪神へと向かい、冬の日はとっぷりと暮れていた。車内は満員だったが、だんだんと寒くなり、オーバーの襟をかき合わせなければならないほどだった。外は灯の光もまばら、真暗でどこを走っているのかわからなかった。食事も母の作ってくれたおにぎりをほおばって水筒のお茶を飲んだり、途中で蒸しパンのようなものを売りにきたので、それを買って食べただけだった記憶がある。ゆられゆられて朝、目を覚ましたところ、瀬戸内海が見えた。岡山あたりであったのだろう。
終点の下関についたのは昼過ぎだった。翌朝にはいよいよ下関と釜山を結ぶ連絡船に乗って朝鮮に渡るのだ。そのためここで一泊するのだが、下関から先については、久原小学校の仲良しで母親同士も仲の良かった桧垣幸子さんのお父様が国鉄にお勤めで、特に下関との関釜連絡船に関与しておられ、現地に精通しているとのことで連絡船の切符とか下関で一泊する宿の手配だとかすべて予約してくださっていた。
その下関ホテルに入って「御夕食はどうなさいますか」と聞かれ、その時はあわてて御弁当を持っていますからと断ったが、後から考えてみたら、ホテルではどんな御馳走が出たのかしらと思って残念だった。旅は初めてだったので、港に行って明日の関釜連絡船の切符を買い、出航時間を確かめた。ホテルに帰って少しボロボロになったおにぎりを、部屋に用意されたお茶で流し込んだ。寝るには早すぎたのでブラッと町に出かけたが、まだ東京よりのんびりしているようだった。映画館があったので入って見たが、戦時ニュースの他に何が上映されていたかは思い出せない。(つづく)