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仏教における信仰とはなにか?
仏教における信仰とはなにか?というと、「何かを盲目的に信じること」ではなく、本質的には「自分の生き方を問い続けること」です
特にこの「問い」が重要なんですね。そして、良い問いを生み出すには内省=自己を振り返ることは欠かせません。
内省がよりよい問いを生み、それが信仰の核になります。仏教は「信じれば救われる」ではなく、「どう生きるかを問い実践する」宗教です。
日蓮宗には「大荒行」という修行があります。
100日間、お堂に籠り寒さと飢えと睡眠不足に耐え忍ぶ水行と読経三昧という厳しい修行です。
この修行、意外かもしれませんが忍耐力を鍛えるというのは副次的なもので、その本質は閉ざされた特殊な環境に身をおいて徹底的に自己と向き合うこと。この1点に尽きると個人的には思っています。
要するに普段の自分がいかに恵まれているかを思い起こさせるんですね。
こうした気づきから内省が生まれ、自らの罪障を自覚する。ゆえに問いが生じ実践に至るという訳です。
因みに罪障(ざいしょう)とは、無明(むみょう)を根本原因として生じるあらゆる欲(煩悩)によって行う業のことです。
生きているだけで良くも悪くも業を重ねているんですね。この罪障の消滅を祈祷や日々のお勤めで祈るわけです。
さて、お釈迦さまが示してくださったフレームワークはとてもシンプルです。
諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の大前提から始まり、
* 四苦八苦(生・老・病・死など人生の苦しみ)という誰しも逃れられない苦しみ
* 因果の法則(業や縁起)
この世に生まれた以上、何人たりとも不可避な「苦」に対し、苦をそのまま苦として終わらせるのか、苦からなんらかの実践に移すのか、この差こそ仏教における信仰の有無です。信仰の深さとは、徹底的に自己と向き合い、そこから生じた問いをいかに実践できるか。
これに尽きます。
要するに外側に答えを求めるのではなく、自分自身と向き合うプロセスなんですね。
問いの立て方には、「八正道」というモノサシがあります。問いを立てる風に簡単に書くと、
1正見(しょうけん):正しく物事を見れているか?
2正思惟(しょうしゆい):正しく考えているか?
3正語(しょうご):正しい言葉を使えているか?
4正業(しょうごう)正しい行いか?
5正命(しょうみょう):正しい生活をしているか?
6正精進(しょうしょうじん):正しい努力をしているか?
7正念(しょうねん):正しい気づきを得ているか?
8正定(しょうじょう):正しい状態で心を定められているか?
となります。この八つの観点から物事を捉えて問いを作り出す。この問いに基づく実践は「中道」の道です。中道は、仏教全体をまるっと覆う思想で、とても大切なところです。
実践は大乗菩薩道、つまり六波羅蜜の実践に他なりません。
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かなり駆け足ですが自分なりにまとめてみました。
実践の部分においては、より信仰的な方法として各宗派色々あるかと思います。
日蓮宗であれば正行として唱題(しょうだい)=心を込めて南無妙法蓮華経のお題目をお唱えすること。が第一となります。
難しいことは置いておいて、まずは大きな声でお題目をお唱えしましょう。
南無妙法蓮華経
いのちに合掌®︎