俊英の死、悲しむべき純粋さ
一般的考察
いまから20年前その友人は24歳であった。公私ともに認める優秀な若者である。最高学府でも最優秀のグループにいた。教授からも気に入られ大学院修士課程を卒業し、ある国家試験に挑んでいた。
本人もストレート合格して当たり前だと思っていただろう。しかし学部生のころから受験し、すでに5回も不合格であった。次が最後と背水の陣を敷いた。すべてを賭けた。
学者の道を目指すためにも、その国家資格に合格することは当然であるという狭い業界での認識もあり、彼は「受かって当たり前」という自己暗示をかけつづけて受験勉強に没頭した。
一年後、不合格となった。
彼はそれから数か月姿を隠した。
しばらくして彼が首を吊り自殺したとわかった。
周囲は俊英の死を悼み、残念がった。極論すれば、人生には超難関国家資格など別にいらないのである。
しかし彼には自負心があった。プライドが邪魔をして窮屈な生き方を強いられた。自分が自分を型に嵌めたのである。
私も彼の死を残念に思う。しかし、齢四十過ぎて見聞を広めるにつき、今となっては感じ方は変わった。
俯瞰すれば、競争はコップの中の嵐にすぎない。地球を支配する権力者が創った競走場での順位を一喜一憂しても意味はない。
自分の人生でどんな意義があるのか、洗脳から外れて考え直さなければならない。彼は認識分析表現という工程では優秀であったことは事実だ。しかし、教育という洗脳プログラムから逃れていなかったのではないかと思う。
自分らしさを求めるために、自分の価値観をもつ、それは洗脳されていることを自覚しない場合だけでなく、洗脳の影響を受けつつそれから逃れようとする意識から始まる。
彼はその超難関国家資格を持たない専門家、研究者となる道もあったはずだ。
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