”命を守る”災害報道 ~大先輩から学んだこと、後輩たちに手渡したいこと~
こんにちは。アナウンサーの武田真一です。
いまは大阪放送局で、「ニュースきん5時」というニュース・情報番組などを担当しています。
6月に入り、今年も災害が懸念される季節になりました。長年災害報道に関わってきましたが、毎年、犠牲になる方が後を絶たず、忸怩たる思いを禁じ得ません。災害から誰ひとり命を失わないために、放送は、自分は何ができるのか。今も悩み続けています。
私が入局して初めて臨んだ本格的な災害報道の現場は、1991年(平成3年)9月の台風19号でした。観測史上5番目の勢力を保ち、九州から本州の日本海側、北海道までを縦断。平成以降で、最大規模の被害を引き起こした台風です。
入局2年目の私は、中継リポートを伝えるため、熊本県三角港にいました。台風が接近すると風が急激に強まり、中継車の外へ出ることができなくなりました。飛んできた瓦や木片が中継車にぶつかり、中継車の窓からは、倉庫の屋根がふわりと浮いて海の中に落ちたのが見えました。隣に停めてあった軽自動車が突風で真横に動きました。
自然災害の猛威を初めて身をもって思い知りました。
朝から夕方まで休むことなく車内からリポートを続けましたが、疲れを感じることはありませんでした。アナウンサーとしての使命感を確信したからでした。
放送の歴史と災害報道
2025年、日本の放送はラジオ放送開始から100年を迎えます。その放送の歴史をアナウンサーの視点で振り返る番組が、今年度から、ラジオ第2で始まりました。「アナウンサー百年百話」です。
6月に放送するテーマは、「災害報道」。
私が進行役を務め、先日収録を終えました。
戦後間もない時期に日本列島を襲った災害について、番組スタッフが各地で集めた資料を読み解き、残された音声を聞き、先輩アナウンサーたちがどのような思いで、声を、言葉を発してきたか、探りました。
その軌跡は、私がこの30年あまり感じてきたことと、不思議なくらい一致していました。そして、改めて後輩や、視聴者の皆様と共有したいと強く感じました。
どんな軌跡なのか…少しだけお付き合い下さい。
電波なく、中継もできなかった洞爺丸台風
アナウンサーと災害報道の歴史、その最初の登場人物が、大塚利兵衛(おおつかりへえ)アナウンサーです。
1949年入局。数々の災害現場に立ち続け、後に午後7時の「NHKきょうのニュース」を長く担当したほか、NHK初のワイドニュース番組「スタジオ102」のキャスターも務めました。私と経歴が重なります。
話は1954年(昭和29年)にさかのぼります。北海道を中心に大きな被害を出した洞爺丸台風です。九州から本州の日本海側、北海道へと進んだ台風は、急に勢力を強め、洞爺丸をはじめ青函連絡船5隻が転覆・沈没。洞爺丸だけで1155人が犠牲になりました。
当時、東京で勤務していた大塚アナウンサーは、事故発生の翌日、北海道に入ります。その時の様子をこのように証言しています。
大塚アナウンサーは船をチャーターし、録音機を抱えて転覆している洞爺丸に接近しリポートしたといいます。なんとかして災害現場の切迫感を伝えたいという熱意には敬服の念を覚えます。普段から着替えや取材道具をまとめたリュックサックをロッカーに入れて置いて、事件や災害が起きた時は上司の許可も得ずに飛び出していったといいます。
大塚アナウンサーが残した手書きのメモを、今回のラジオ番組のためにスタッフが発掘しました。
大塚アナウンサーを突き動かしたもの――それは「被害を最小限に抑える途を探る」という使命感であったことが伺えます。入局2年目に私が感じた思いと通じるものを見つけ、胸が熱くなりました。
伊勢湾台風で大塚が気づいた災害報道の意味
洞爺丸台風から5年後の1959年(昭和34年)。「伊勢湾台風」が甚大な被害をもたらします。東海地方を直撃した台風が未曽有の高潮を引き起こし、5000人以上が犠牲になりました。
名古屋放送局を中心に、のべ20人以上のアナウンサーが被害の情報を伝え続け、その中に、東京から駆け付けた大塚アナウンサーの姿もありました。大塚アナウンサーは27日間現場に滞在し続け、何よりも被災地の皆さんの声を取材し続けたということです。
大塚アナウンサーが後に残したメモには、こんな言葉もありました。
被災された方々の厳しい現状を目の当たりにした大塚アナウンサー。避難生活の支援や、その後の復旧・復興を後押ししていくことまでが、災害報道の役割だと気付いていたのではないでしょうか。
阪神・淡路大震災で現場に立った私は
私が入局して5年目、1995年(平成7年)に阪神・淡路大震災が起きました。当時松山放送局に勤務していた私は、その日のうちに淡路島の旧北淡町に入りました。町の中心部は壊滅状態でしたが、地元消防団の捜索で、発生当日には全ての住民の安否が判明しました。
亡くなった人は39人。翌日には合同葬儀が営まれ、町民センターのホールに犠牲者の棺が安置されました。ふた回りほど小さな棺も安置されていました。
避難所では、さまざまな方の話を伺いました。住む家と勤めていた水産加工場がなくなり、ぼう然としている人、牛舎の水が枯れてしまい、どうやって牛を飼っていくか思案にくれている人…。
家族や暮らし、明日への希望を奪われた人々を、私たちの言葉はどう支えていけるのか。わたしは初めて、災害現場で大きな無力感を感じました。伊勢湾台風の現場で大塚アナウンサーが感じたように、災害報道の本質の深さを思い知らされました。
私たちの役割は、警察や消防や自衛隊やボランティアのみなさんのように、現場で直接人々を助けたり、片付けたりすることではありません。
「報道で人の命を救う」
自分たちの使命を、そう言葉で言うのはたやすいことです。
しかし、本気でそう思っていただろうか?
どうすれば本当に実現できるのだろうか?
いまも目に焼きつく当時の北淡町の光景が、私の災害報道へ模索の出発点となりました。
命を守るための放送とは
災害報道では、災害が起きる前に、被害を最小限に抑えるために役立つ情報をどれくらい伝えられるかが、重要なポイントになります。
今回のラジオ番組の取材で、伊勢湾台風が直撃する前に、あらかじめ「高潮への警戒」が呼びかけられていたことがわかりました。名古屋放送局の倉庫に保管されていた当時の気象情報の原稿が見つかったのです。
原稿には放送した日時も記録されています。それによると、伊勢湾台風が紀伊半島に上陸した1959年9月26日には、27回の注意喚起をおこなっていたことが分かりました。そのほとんどに高潮への警戒を呼びかける言葉が入っています。
それにもかかわらず被害は起きました。名古屋局に保管されていた番組にはこんな声も残されています。
「高潮に注意」という情報だけでなく、人々がどういう行動をとるべきかを伝えなければ、命を守るための放送にはならない、ということが、当時から強く意識されていたことが伺えます。
災害報道の原型が生まれた50年前の災害
被害情報だけでなく、被災者を支援するための情報も含めて、災害報道の原型ができたと言われる災害があります。
1964年(昭和39年)の「新潟地震」です。
1964年6月16日、午後1時1分。新潟県の粟島南方沖を震源とするマグニチュード7.5の地震が発生。津波、石油コンビナートの火災、住宅地や工業団地の液状化現象などにより被害が拡大しました。
地震発生からおよそ1時間後、新潟市内の状況を伝えるアナウンサーの声が残されています。
地名を具体的に伝えた上で状況をリアルに描写しています。現場リポートのお手本のような放送です。
放送の音声を聞いていくと、たびたび入ってくるのが「お知らせ・注意」です。
中には、国鉄の職員に向けたと思われる呼びかけも。
また、被災者の安否を知らせる放送もされていました。
当時富山放送局に勤務し、新潟地震の報道のために駆けつけた八木健(やぎたけし)アナウンサーは、この時のことをこう語っています。
八木さんは、私が入局したての頃、松山放送局で一緒に勤務したことがある大先輩です。この音声を聞きながら、半世紀も前の先輩たちが、一刻も早く状況を伝え、被災者のためになんとか役にたとうと、懸命に声をからした様子が目に浮かびました。
阪神・淡路大震災の2年後、私は東京アナウンス室に異動になり、スタジオキャスターとして災害報道に取り組むことになりました。
深夜帯など、アナウンサーはニュースセンターに自分ひとりという時間帯もあります。自分の言葉が人々の命を左右するかも知れないというプレッシャーを強く感じるようになりました。
災害をどのような手順や考え方で伝えればいいのか。豊富な経験のある先輩たちはいましたが、口伝えで断片的に教えてもらうより方法がありませんでした。
そこで、私は、自分に向けて資料を作り始めました。主に地震報道についてでしたが、気象庁からどんな情報がいつ、どんな経路で入ってくるのか確認し、それぞれの段階でどんな呼びかけをしていけばいいのかを考え、まとめていきました。
報道グループのアナウンサーで勉強会を作り、訓練も重ねました。
私は少なからぬ自信を持つようになりました。
しかし、その自信は完全に打ち砕かれました。東日本大震災によって。
東日本大震災のアナウンサーの対応は、おおむね、当時私たちが考えていた通りのものだったと思います。しかし、システム上の問題点もあり、更新される情報をリアルタイムで伝えきれないなど多くの課題が残りました。
何よりも、被災された方々に対してどんな呼びかけをすれば本当に命を救える放送になるのか、突き詰めが足りなかったと言わざるを得ません。
東日本大震災後、私たちは、本当に命を救える放送にするためにさまざまな改善に取り組んできました。
「今すぐ逃げること」などと強い調子で呼びかけたり、具体的なデータや過去の事例を使って「正常性バイアスー自分だけは大丈夫という意識」を打ち破れるような伝え方を取り入れたりしてきました。
そして時には、被災された方々を励まし、寄り添うような言葉も必要となる場合があることにも気づかされました。情報を一方的に伝える「インフォメーション」としての放送から、私たちの言葉に呼応して、人々が行動を起こしたり気持ちを奮い立たせたりできる、「コミュニケーション」としての災害報道が理想ではないかと、いまは考えています。
ただ、その道はまだ険しいのが事実です。取り組んでいること自体に満足してはならないとも思います。
本当の成果は、次の災害で、誰も命を失わないことです。そのために何ができるか、絶えず考え続けなくてはならないと強く思います。
半世紀以上前のアナウンサーの先輩たちが現場で感じ悩んだことは、今、私が感じていることと変わりはありませんでした。その経験や問題意識を引き継ぎ、さらに知見を積み上げて、次の世代に手渡していきたいと思います。
最後に、新潟地震で県の対策本部からの、あるアナウンサーのリポートを紹介します。誰が発したものなのか、アナウンサーの名前は記録されていません。
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【アナウンサー百年百話】
「アナウンサー百年百話」は、日本でラジオ放送を開始してから100年の節目を迎える2025年に向けて、アナウンサーの「ことば」をもとに放送の100年を振り返るラジオ番組として4月からスタートしました。その時々で過去のアナウンサーたちがどう向き合ってきたのかをご紹介していきます。ラジオ第2で、毎週水曜午前10時30分より放送。
(再放送 水曜午後10時・土曜午後3時45分)
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