セルゲイ・ロズニツァ監督『アウステルリッツ』:鑑賞-突貫-備忘録
セルゲイ・ロズニツァ監督『アウステルリッツ』を鑑賞後に感銘を受けたため、急いでこの印象を書きつけることにする。しかるべきときに、この素晴らしい作品をまた取り上げたいと思う。ところでこの監督は他にもウクライナ危機の『ドンバス』やスターリンの『国葬』など、特に最近話題になっている監督の一人でもある。
ダークツーリズムのドキュメンタリー?
本作はホロコーストが行われた強制収容所(ザクセンハウゼン)を「観光」するダークツーリズムを坦々と映し続ける映像作品である。
これはいわゆるドキュメンタリーなのかは分からない。なぜなら超長回しの定点カメラに全編白黒でナレーションは入らないからだ。かなり異質な部類に入るのだろう。
ところでいままでもホロコーストに関するドキュメンタリー映画自体は多くあった。それは例えば被害者や加害者、当時見ていた人たちに取材した、あるいは再構成した作品であった(例えばその中で素晴らしいものとしてアラン・レネ『夜と霧』やランズマン『SHOAH』がある)。しかしこの作品はまったく関係ない、時代を隔てた観光客に焦点をあてて、まったくの注釈も解説も語りもなく、ただそれを映し出すだけだ。
安楽椅子のメタ的な視線と居心地の悪さ
おそらくこの作品の見はじめには、私たちはどこか居心地の悪さを覚えるのではないだろうか。つまり歴史的に闇の深い(「ダーク」)場所が「記念館」として観光地化されていること、そしてそこに見られる多くの人々はその歴史性を前にして悲痛な表情を浮かべる、というよりも一つの博物館を見に来るかのように——カップルや家族、友人と——やってくる。これを見て「そういう大衆」に対してやるせなさを感じるだろうか。そして次の瞬間、その姿はまるごと私たちに反射しそのまま返されるのである。例えば「広島原爆ドーム――広島平和"記念"資料館」に行ったときに私たちは、どうだったであろう……。
「観光客」が労働者に、看守に、異邦人となっていく…
その居心地の悪さの中で映像を見ていると、建物内の(おそらく)「仕事場」のような場所を人々が見て回っているシーンが映される。あるいは監獄の通路を。(当時の)モダンな建付けの出入り口を。そのとき、観光客だったものが、どうしてだろう、労働者(Arbeiter)と重なり、看守と重なり、あるいはそこにふさわしからざる異邦人となっていく。白黒であるということもより一層、80年前との区別を溶解させる。
彼らが私たちであるように、私たちも彼らである
しかしこの視点に甘んじているか、またしても見る私に暴力的にイメージが返される。それは「焼却炉」の前で笑顔で写真を撮るカップル、「ARBEIT MACHT FREI(労働は自由にする)」の前で楽し気に写真を撮る家族連れによってだ。そこで重大なことに気づくのである。この映画は、彼らをメタ的な視点で(私たちは安楽椅子に座ってフンフンと)見ていた地点から、彼らとそしてツアーガイドともに着実に一歩一歩この「記念館」を”楽しんで”回っていたのである。あるいはグーグルマップのストリートビュー的に。つまり、私たちもそのうちの一人だったということ、与えられたメタ的な視線はあっという間に梯子を下ろされるのである。
視聴後、そこにみつけたもの
私はこの映画を見終わったとき、すぐにインターネットでザクセンハウゼン強制収容所の当時の写真を検索した。白黒の写真がたくさんヒットする。さきほど見た光景と何ら変わりないではないか。ただ、旅心地な異邦人の代わりに悲痛な表情を浮かべた囚人―ユダヤ人がそこに映っているということを除いて……