結局のところ、「本当に大切なもの」しか残らない
ジャーナリングテーマ:
・なぜ禅日記をやろうと思ったのか
・その活動は本当にやりたいことか?ワクワクを感じられるものか?
・やってみて何を感じたか?
・これから先はどうしていくか?
結論
禅日記を出そうとした理由は、実践こそが禅の本質のため、体験に基づく発信がしたいため。
ワクワクはそこまで感じなかった。
企画としてはおもしろそうな内容だが取り組んでみると大変で個性を封じてしまっていた。
散歩とジャーナリング以外やりたくないかも。
この2つを生活のメインに置く。それを考えると、どこかワクワクする。
どうして禅日記を?
・禅は実践だから
・実践を発信していくことが本質的だから
・知識だけを発信するのは禅ではないから
・ボク自身、「体験からの気づき」を出したいから
まとめていくと、禅日記を出す理由は、実践こそが禅の本質のため、体験に基づく発信がしたいため、という2つの理由があった。
どうして体験に基づく発信を重視するのか?
・自ら体験して得た学びは、ネットから得た学びに比べて質が違うから
・確信、信頼性とでもいうのか、自分の中に深く刻まれる学び
・発信をしていくならばそのような「生きた気づき」を届けたいから
禅日記は本当にやりたいことか?
・うーん、どこか△評価になっている
・やってみたけど、そこまで楽しくなった
・むしろ「めんどくさい」と思えてまでいる
ワクワクはそこまで感じない。
企画としてはおもしろそうな内容だが取り組んでみると大変だった。
ワクワワできない要因が存在していた。
どの辺でワクワクできなかった?
・毎日こまめに記していく点
・メモしたことを整理していく点
・この企画でほとんどリソースを割く必要があったところ
要するに、かなり時間がかかるところが苦痛だった。
実践の感想をこまめに記していく形式が尾を引いてしまっていた。
そこから派生して整理作業が付随してくる。
価値観の「自由」がここで封じられた。
やらなきゃいけないことに忙頼される仕組みがこの企画にはあったということ。
ではもし、この忙しさがなくなったとなればこの活動は続ける?
う~ん、どうだろうか。
迷う。
忙しくないから続けるのもまた違う気がする。
「禅」への興味が小さいというのもありそうだ。
あんまり興味が大きくなかった。
この企画でもふつうに自然とできていたことがあった。
それがメモ、ジャーナリングだった。
実践していて気づきがあればジャーナリングを展開していた。
そのことに没入していた。
一方で、気づきがなかったとき、ジャーナリングしようと思ったが手が止まった。
「いかんいかん、これは禅についての企画。実践のこと以外は書くのを控えておこ」
ジャーナリングへのブレーキが走ってしまった。
ここでも「自由」が封殺されていた。
ジャーナリングというのは本来自由に書いていくもの。
だからこそ僕はこの「ジャーナリング」というものが大好きなんだ。
にもかかわらず「禅」いうテーマが固定してしまったが故にジャーナリングの手すら止まってしまった。
書くことがあればジャーナリングは自然とできていた。
しかし何もないと手がストップする。
ジャーナリングをもっとフル活用できる、フル活用OKの企画を構想していくべきだったのか。
やっとわかった。
これからどうしていくか?
・コーチと相談する
・散歩とジャーナリング以外やりたくないかも
・ワークショップ、バックエンドーセッションはやってみたいが「禅」テーマでないかも
ひとまずここまでをコーチに全て共有していく。
ここ数日を過ごしていて感じたのは、やっぱり僕は散歩とジャーナリングが大好きなんだな、ってこと。
この2つを生活のメインに置く。
noteとか仕事とか他のことはほとんどサブ。そんな関係がボクには合っていそうだ。
散歩とジャーナリングだけやる。
それを考えると、イメージするとワクワクする。
もしかして次のアクションの取っかかりはこの2つが大きく絡んできたりするのか?
ジャーナリング写真
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