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自分の行動が未来を生きる人々の勇気にー元山仁士郎さん(「辺野古」県民投票の会元代表)

5月15日で沖縄は本土「復帰」50年を迎えました。これを機に、DEAR News196号(2020年4月/定価500円)掲載のインタビュー記事を公開します。※本文中の所属などは取材当時のものです

沖縄県名護市の辺野古では、政府による米軍基地建設が進んでいる。基地建設への民意を明確にすべく「辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票」を実現させた元山仁士郎さんにお話を伺った。

東京に来て気づいた基地問題

元山さんは、米軍海兵隊普天間基地がある宜野湾市に生まれ育った。「米軍基地は当たり前の存在でした。少女暴行事件や教科書沖縄戦記述問題などへの抗議行動はありましたが、何も変わりませんでした。子どもの頃、頭上のヘリコプターに『うるさい』と叫んだこともありましたが、飛行が止まるわけはなく、普天間基地ゲート前で抗議の人々を見かけても『声を上げても何も変わらない』と分かった気になっていました」

2011年春に大学受験勉強のため上京すると、東京では、戦闘機の音でテレビが聞こえない、授業が中断する、夜中に起こされる、といったことは無く「ふるさとの日常は異常だった」と気づいた。一方で、周りの人々に基地のことを尋ねられても答えられない自分がいた。「これではいけない」と思い、次第に基地問題に関心を持つようになっていった。

社会運動への参加―終わりではなく始まり

元山さんは国際協力に関心があり、海外の貧困問題に取り組みたいと考え、大学入学時は国際関係学を専攻した。「日本には問題がない」と思っていたのだが、基地問題、原発事故、日米地位協定、交付金等による地域分断、情報を隠蔽する政治など、日本国内の問題が気になり始めた。

13年6月、憲法改正手続きについて定める憲法第96条改正の動きがあり、千人規模のシンポジウムが開催された。参加した元山さんは、関心を持つ人々が多いことに驚き、「自分も何かしたい」気持ちが高まった。

13年12月、特定秘密保護法が衆院を通過したのを機に、他大学の仲間と「特定秘密保護法に反対する学生有志の会(以下、SASPL)」を立ち上げた。初めは、沖縄で見た運動を思い出し、「デモなんかしても何も変わらない」と思っていた。そもそも、デモには年配者の参加が多く、自分のスタイルに合わない気がしていた。活動の方法が見つからない中、SASPLの仲間と「かっこいいデモをやろうぜ」と話し合い、実行。目を引くロゴ、ビラではなくフライヤー、シュプレヒコールではなくラップ調のコールは、デモのあり方を劇的に変えた。実は、「裏方に徹して、そっとフェイドアウトして普通に就職しようと思っていた」そうだ。

14年12月、官邸前抗議行動の日はカメラ係だったが、ふと「俺も何か言いたいな」と思い、初めてスピーチをした。もやもやと考えていたことを言語化するのはすっきりした気分で、メンバーからも「よかったよ!」と言ってもらえた。もっと勉強して、責任をもって発言したいと思うようになっていた。

15年5月、SASPLの仲間とSEALDs(安保法制に反対する「自由と民主主義のための学生緊急行動」)を立ち上げるが、9月には安保関連法案が国会で成立してしまった。その日は夜通しデモをした。法案を止められなかったことは残念だったが、「終わりではなく、ここから始めていかないといけない」と思い、このSEALDsの経験を「地元沖縄で生かしたい」と考えた。

辺野古県民投票の実現に向けて

17年11月に辺野古基地法廷闘争弁護団の一人である武田真一郎教授(成蹊大学)から、撤回をめぐる裁判に向けて県民投票を行う必要があると聞き、県民投票に関心が向くようになった。

ところが、反対運動を行っている人々の多くは「選挙で民意は示されている」「ゲート前行動だけでも大変」と投票に否定的だった。それでも2016年9月に出された裁判の判決や社会の状況から「シングルイシューで民意を示そう」「分断を乗り越えたい」という思いで、17年12月、那覇で県民投票を考える会シンポジウムを開き、仲間を募った。既存の組織に属していない仲間約50人で「辺野古県民投票の会」を立ち上げた。18年4月に大学院を一年休学して活動に専念しようと決めた。

署名集めの期間は申請から2か月間と決まっており、県内市町村に署名手続きの説明会を開いて回った。一ヶ月後の6月23日、集まっていた署名はわずか5,000筆ほど。新聞に取材記事が掲載されると問い合わせが増え、結果的に10万筆近い署名が集まった。県民投票に必要な有権者数の50分の1の4倍にもなった。

沖縄の47市町村それぞれに自衛隊の基地建設などの論点があるが、辺野古の埋め立て一本に絞って県民投票を実施することにした。表立って埋め立てに賛成と言う人は少なく、沖縄県民の民意を反映しやすいと考えたからだ。

県議会で審議され、10月26日に県民投票条例が成立した。ところが、宜野湾・沖縄・うるま・石垣・宮古島の5市長が県民投票にかかる予算執行を拒否。県民投票不参加を表明したのだ。このままでは32万人の有権者が投票不可能となってしまう状況だった。

体を張った抗議による投票実現

元山さんたちは19年1月に県議会議員に県民投票への参加を呼びかけ、県知事も説得に回ってくれたが5市は動かなかった。深夜、母と話をしているとき、ハンガーストライキを思いついた。ハンガーストライキはその年の1月に宜野湾市役所前で、過去にも奄美、旧嘉手納村で行われるなど歴史上も珍しいことではない。瀬長亀次郎*の「不屈」の運動のように、強い抗議の意思を示すためには体を張って覚悟を見せつけることが必要だと考えた。

*瀬長亀次郎(せなが・かめじろう):沖縄の祖国復帰と平和な社会の実現を目指して命がけで闘ったジャーナリスト、政治家。1907年~2001年。瀬長が残した資料は沖縄の民衆の戦いを残す民営の資料館「不屈館」(沖縄県那覇市)に保存されている。http://senaga-kamejiro.com/

1月15日に宜野湾市役所前で開始された元山さんのハンガーストライキは、想像していたよりも厳しかったという。当初は水だけ飲む予定だったが、医者の勧めで3日目から塩も舐めるようにした。SNSや報道を見て、若者からお年寄りまで約500人もの市民が市役所前を訪れ、署名や応援をしてくれた。「右翼」の街宣車による威嚇もあり、ボランティアスタッフが24時間体制で守ってくれたのも助かった。

3日目から県民投票条例改定に向けた動きが水面下で動き始めた。5日目でドクターストップとなったが、野党の県会議員から県民投票の会副代表に連絡が入り、与野党間の調整を経て、「賛成・反対・どちらでもない」の三択の方向で条例改正を行ったところ、5市も投票に参加することになった。2月24日に実施された県民投票の投票率は52.5%、うち反対は72.2%だった。

「上の世代の人たちは沖縄戦、次の世代の人たちはコザ暴動、米兵少女暴行事件抗議県民集会など、沖縄の人たちには共有している歴史があり、今回の県民投票の成功が自分たちの世代の共通の歴史になったらいいと思っています。前面に若者が出るとマスコミも注目してくれ、19年6月には、東京の中野、三鷹、国立など全国各地で県民投票重視の請願や陳情を上げる動きがありました。辺野古埋め立て工事は止まっていませんが、あきらめてはいません。声を上げるのは無駄なことではないと考えています」

この10年ほどの想いや行動を振り返り、元山さんはこう語ってくれた。「自分の行動が未来を生きる人々の勇気になればと思っています。若者には、おかしいと思うことを声に出すことは無駄ではないと伝えたい。将来は研究者となって若者を支えていきたいです」
(取材・文:阿部秀樹、中園真由美、中村絵乃)

元山仁士郎さん
twitter
署名キャンペーン「「復帰50年」 岸田政権に辺野古新基地建設の断念を求めます」

「辺野古」住民投票の会
「辺野古米軍基地建設の埋立ての賛否を問う県民投票」の呼びかけ人により設立された会。「話そう、基地のこと。 決めよう、沖縄の未来。」をキーワードに県民投票の実現のための活動を展開した。県民投票から1周年となる2020年2月24日には、ライブイベント「2.24音楽祭 2020〜Beyond the Border〜」を開催した。
https://twitter.com/henokotohyo

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