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学びあいフォーラム アーカイブチーム報告
はじめに
学びあいフォーラムでは持続可能性の概念を公正・内発性・参加・構造的理解という四つのキーワード(以下、四つの視点)で捉えてきたが、アーカイブチームは2021年度から、その四つの視点を地域の立場からあらためて問い直す議論を進めてきた。本稿はその議論の記録である。「持続可能な地域づくりのための学びあいフォーラム」(以下、学びあいフォーラム)は開発教育協会の一事業として2015年度から2023年度まで実施され、持続可能な地域づくりのプロセスにおける学習のありようを地域の実践者とともに考えてきた。学びあいフォーラム内には企画運営を担うコーディネーターチームが設置され、2015年度の準備期を経て2016、2017、2019年度には全国から参加者を募りワークショップ形式のプログラムを実施※1、2018年度には『持続可能な地域づくりのための「学びあい」ハンドブック』を作成・発行した。さらに2020年度以降はコーディネーターチームメンバーがそこから見出された新たな課題に沿っていくつかに分かれて活動しており、アーカイブチームの活動はその中の一つである。
<学びあいフォーラムと四つの視点>
学びあいフォーラムでは、持続可能な地域づくりのプロセスで人と人とが関わりあい、それを通して相互に気づきや変化が生み出される営みを持続可能な地域づくりのための学びあいとして、学びを幅広く捉えている。学びには多くの意味があるが、ここでは地域の一人一人が学習の主体であり地域づくりの主体であることを前提に、そうした一人一人が対等に経験や考えを共有することで進む学びに注目してきた。そして、その学びあいのプロセスで個やグループなどに気づきが生まれ行動や態度が変化していくと捉えてきた。また学びあいは、講座やプログラムなどで生まれるだけではなく、人と人とが関わる地域の様々な場面、例えば、日常的な会合や行事の集まりなどでも生まれ得るもので、そうした学びあいのありようにも注目した。そして学びあいにより生まれた関係性の変化がさらに周囲にも波及し地域の変化につながるという模式を念頭に、多様な地域づくりのありようとそこにおける学びあいのありようを、それぞれの地域実践の中でどう働きかけて形づくるのかを考えようとしてきた。
学びあいフォーラムでは持続可能な地域づくりに関して、地域固有の歴史や文化に基づいたそれぞれの地域づくりのありようを地域の人々自身が決めるものであるという前提に立ち、その方向性を持続可能な開発論における社会的公正(世代内での資源の公正な配分)と環境的適正(将来世代の資源を枯渇させない)の実現を目指すもの、という定義に基づいて捉えてきた。これを4点に整理して次のような「四つの視点」として事業の土台に位置付けた。
参加:よりよい社会・地域をつくる主体は、地域の人々自身である
公正:「声をあげられない・届かない人」の参加を促す
内発性:地域をよりよくするために、地域にある資源に気づいたり活用したりする
構造的理解:地域の問題を構造的・包括的にとらえる
<インタビュー・プロジェクトの趣旨・背景>
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アーカイブチームでは2021年度から、学びあいフォーラムでの2015年度以降の議論についてコーディネーターチームの会議記録やワークショップの実践記録をふりかえりあらためて確認した。その中で浮かび上がったのは、四つの視点を学びあいフォーラムの土台として位置付けていたにも関わらず、それらをめぐりプログラム内でどのような対話が交わされたのかが2016年度までの各種資料や記録からは明確に読み取ることができなかったことである。例えば、ワークショップの準備段階では「四つの視点」の内容を扱うよう計画してワークシートを用意し、ファシリテーション用メモには対話形式でやりとりする、と記載があるものの、ワークショップ当日の記録にはそれに関連する問いかけがみられないということがあった。またプログラム実施後の2016年10月23日に行われたコーディネーターチームによるふりかえりの記録を見ると、四つの視点の共有の仕方を巡り多くの意見が交わされ、その扱い方や共有の仕方を巡る葛藤が伺えた。例えば、「各地域にとっての開発や学習(のあり方)を考える、としているので各地域にとっての視点の語られ方があると考える。一方で(学びあいフォーラムでは)…四つの視点に沿って(地域を)みてほしいと考えているので、出会わせ方が悩ましかった」「4つの視点の語り方は、今までのDEARがやってきた事業の中から抽出したもので、具体があるわけではなく抽象化されたものである。内実としては、具体的文脈で常に問われることが開発教育として大事であり、だから地域で一緒にやることが大事だという流れになっている。そこで、学びあいフォーラムでは一緒に地域を見て見ましょう、という点に立った意識が必要である。」※2さらに、プログラム内では地域の経験や文脈を尊重したいとするあまり、当時は一般にはあまり馴染みのなかった公正という用語を最初から提示することなく、対話的なやり取りの中で四つの視点の内容を共有しようとしたが、その方法の是非についても多くの議論が交わされていた。 もちろん、四つの視点に示したような持続可能な開発の価値観は、プログラムのねらいや構成、個別のアクティビティ内容や学習手法などには反映されていると考える。とはいえ、地域の実践現場や参加者の置かれている現実と、四つの視点の抽象的な概念をうまくかみ合わせながら対話的に意見交換する機会を作ることに苦労していたのは間違いない。 そこでアーカイブチームでは、過去に学びあいフォーラムに参加した地域の実践者の方々から、各地域での実践によって目指している地域・社会の姿や、なぜそれを目指すのかといった各実践の背景にある考えを伺うことで、持続可能な開発の概念を改めて地域の視点から捉え直し、四つの視点の開発観を問い直したいと考えた。そしてその際に、四つの視点そのものを検証するという形ではなく、それらの枠組みを超えて地域の視点から見出す開発のありようとはどのようなものかを探ろうとした。具体的な方法としては、地域の学びあいの実践者数名にグループインタビュー形式で話題提供を受けた後、コーディネーターチームの新旧メンバーも交えて意見交換の機会を設け、四つの視点を地域の視点から共に問い直すこととした。さらに、それら一連の議論をアーカイブチームでふりかえり、新たな課題や提言をまとめることとした。
<グループインタビュー>
以上の趣旨から、過去に学びあいフォーラムに参加したことのある3名の方々に、2022年7月10日に対話形式でのグループインタビューを依頼し、実践内容や背景として持っている考え方について、質疑応答と意見交換を行った。
上村有里さんは、大阪・豊中市のNPO法人とよなかESDネットワーク(TEN)事務局長である。「学びあいフォーラム」参加時にはTENは設立直後で当時理事長をされていた。大野のどかさんは、東京・八王子市でコミュニティ・バー「もっきんバー」の店主である。「学びあいフォーラム」には「八王子市民のがっこう まなび・つなぐ広場」のメンバーとして参加した。小黒淳一さんは、新潟県内の国際協力NGOのネットワーク団体である「にいがたNGOネットワーク」内に設置された国際教育研究会RING企画委員長で、中学校教員である。
上村有里さんのお話(概要):
配布資料
上村さんインタビュー資料220710.pptx.pdf
TEN(とよなかESDネットワーク)は「子どもを真ん中に据えて、誰もが、どのような環境にあっても、自分らしく生きていくことができる社会を目指す」をビジョンに据えて、2016年より豊中市で子ども・若者やその支援者を主な対象として活動している。子どもたちだけではなく、周りにいる大人たちも自分たちらしくいることが大事だと考えている。
不登校や引きこもりがちな中高生を対象とした「おもろ荘学習支援」事業では、外国ルーツの子どもたちも含む様々な背景の子どもたちを、大学生などの若いスタッフが支援してきた。おもろ荘に通ううちに子どもたちがだんだん積極的になり、今ではフリマイベントを企画・実施するほどまでに、主体的に地域に関わるように変化した。また、スタッフも子どもから学び変容してきた。
そのほか、生活保護世帯や被虐待・ネグレクト、ヤングケアラーなどの子どもたちの過ごし場兼食事提供の場として、行政からの委託で学識経験者とともに取り組んでいる「子どもの見守り相談支援事業」、市民活動支援事業を受託している「市民情報サロン」運営、地域の担い手を育成する「とよなか地域創生塾」、子どもの居場所を運営する人材育成と運営支援を行う「子どもの居場所ネットワーク」などの事業を実施している。当事者への直接的な支援に加え、問題解決のための環境整備の両面をやっていくことが重要だと考えて行政とも協働している。
どの事業においても念頭に置いているのは「循環のしくみづくり」である。すなわち、最初は課題を抱えた住民や参加者としてある事業に関わり始めた人であっても、継続的な関わりのなかで、ゆくゆくは一緒に他の住民の相談を受けたり共に事業を運営したり(協働)、さらに新たなサービスや事業を提供する立場を担う(共創)ような関係性の変化を意識し、常に市民を「お客様」にしない配慮をしている。
大野のどかさんのお話(概要):
配布資料 大野さんインタビュー資料220710.pptx.pdf
コミュニティ・バーを開店し、店主として週3日営業している。これまでにさまざまなボランティア活動や日本語教育、開発教育などに関わる中で、「社会は多様な他者で構成されている学びの場そのもの。より多くの人が集う場を作りたい」という思いをもち、バーを開店するに至った。一般の飲食店ではなく、コミュニティであることを意識し、来店者が人と人、人と情報などのつながりを得られる場にしている。また、地産地消やオーガニック、フェアトレードなど、世界の課題解決につながるものも大切にしている。また、対話バーや憲法バー、読書会、ライブイベントやほろ酔いウクレレ教室などのさまざまなイベントも実施している。店主の思いは半分、来店客の参加が半分という気持ちで、ともに企画してイベントが生まれるような関係性がある。店主としてファシリテーターのような役割を担っている。
個人的に以前は、地元には面白いことがないと思っていて、自分が面白いと感じる都心へ出かけることが多かった。しかし、地域を面白くするもしないも自分次第で、自分にも責任があるのだと気づいた。実際は地元にはたくさんの人や団体のリソースがあり、自分が動けば動くほど、つながりが広がっていく。一人ではできないからこそ、他者と生きていく喜びがある。誰かに頼ること、自分が不得意なことは人に任せて、地域の人たちの”活かしあい”をやっている。真面目なことを楽しくやることで継続できている。
コミュニティ・バーを始めたのは、何か特定の課題を求めてやってくる人ではなく、そういうことを全く知らない幅広い人たちに出会うためだった。しかし、実際にはこちらの政治的関心やコンセプトが強いため、緩く地域でつながれるところには至っていないことが、現在の課題であると思う。
小黒淳一さんのお話(概要):
配布資料 小黒さんRING紹介220710.pdf
国際教育研究会RINGの代表であるとともに、公立中学校教員である。
RINGはにいがたNGOネットワーク内に設置された研究会で、設立以来30回以上のセミナーやワークショップを市民向けに開催してきた。現在はより多様な人々とつながれるように、県内外のNGOとの連携や、県内のさまざまな地域での開催、過去の同セミナー参加者や外国ルーツの住民がスピーカーとして登壇するなど工夫をしている。
勤務校では全校(生徒約80名)で2020年度からSDGs探究学習をしている。2021年度には学年混合のグループを編成し、グループそれぞれのプロセスで地域の方々と一緒に課題への取り組みを企画・実施し、そのプロセスを教員が支援するような形で、課題設定、情報収集、整理・分析、実践タイム、ふりかえり、の一連の学習活動を実施した。課題設定にあたっては、事前学習で地元地域の方々や県外でグローバルな課題に取り組む方々にお話を伺うなどして自分の関心あるテーマを探し、それを元に興味関心の近い生徒4〜6名でグループを編成した。また、地域の方々との協働できる体制を作り、協力者の方々と一緒に企画会議を行ったり、教員のふりかえりの会に地域の方々も参加したりすることもあった。並行して職員研修も行った。実践タイムでは、トキの生息地を守る活動をする団体とともに市民向けのイベントを企画・運営するグループや、地域の魅力を伝える観光動画を作成・発信するグループなどのほか、地域の寄り合いから依頼され、SDGsに関する講義をしたグループもあった。本校の生徒は、本実践前のアンケートによると社会や地域への関心が比較的低い傾向があったが、2021年度終了時には同項目が全国平均より20ポイントも高くなったことから、学習の効果も見てとれる。
私自身が普段から地域内外のさまざまな分野の活動に関わっている。学校外の人たちと出会い体験したことにワクワクし、そのことが自分をブラッシュアップさせている実感がある。自分の出会い、学び、人、風景をどのように学校現場で子どもたちにつなげることができるか、それがうまく行った時にとても充実感を感じる。また、それを常々考えていると、情報が次々に入り人とのつながりも広がっていく。
事例提供者の3名の方に加え、アーカイブチームメンバー3名との計6名で自由に意見交換する中で、事例提供者の方々からは、3つの事例が実践方法や地域での立場など全く異なっていることに対して興味関心が示された。同時に互いの共通点として、どの活動でも、人々の参加やその一つのあり方としての協働が強く意識され実践している点や、自分たちが地域の人や物事のつなぎ手でありファシリテーターの役割を担っているという認識、そして、地域にとってその役割が大切であることとさらなる育成が必要であることが指摘されていた。
またアーカイブチームメンバーから、持続可能な開発の方向性とは相容れないような経済や開発のありようから地域でもさまざまな社会的経済的問題が存在する中で、この本質的な問題を地域の日常の協働の中でどう変容させていくのか、といった投げかけがあった。これに関して対話を進める中で、事例提供者の方それぞれの経験に基づいた見方が提示された。
例えば開発の方向性の観点からは、一人一人がもつ可能性を社会が「こう生きるべき」だと押し込めているような状況を変え、一人一人が現存のシステムに乗らなくても生き生きしていけるというような開発を目指している、とのコメントがあった。また地域の人々の開発に向けられる視点の変化に注目して、コロナ禍は大変なことも多かったが、地域ではそれをきっかけに、それまで活躍の機会が得られていなかった若者や主婦といった層の人たちの活躍の機会が増えたり、それまでは関心を向けていなかった食と農業などの身近な暮らしにまつわる課題に目を向ける人が増えたり、ITでのコミュニケーションが広がり引きこもりがちだった人とコミュニケーションが取れたりするようになった、といったポジティブな変化の指摘もあった。これを受けて別の参加者からは、自分たちが2011年の東日本大震災の時に直面した問題状況も同様で、危機的な社会状況下で不安に晒されたことで、その不安を仲間とともになんとか乗り越えていこうと地域で学習活動を始めた、という体験が紹介された。
さらに、コロナ禍や戦争など現在グローバルに発生している問題を考えると、自分の普段の暮らしをとりまくもの、例えば、食やお金、エネルギーといったものを個人的に最小化していきたい、自分が個としてどう幸せに生きるかに執着するようになった、とのコメントもあった。これに対して、FEC自給圏※3という考え方を紹介しつつ、Food、Energy以外のCareも最小化できると思うか、という問いかけがあり、これについては、ケアに関しても最小化できると考える、というコメントや、ケア論の中でも人間同士のケア以外に自然と人間の間のケアなどの考え方もあるから、人間のケアを最小化しても自然とのケア的な関係の中で生きているという考えもあるかもしれない、といったやり取りがあった。
これらのやり取りを受けて、さらなる問いかけとして、個人が自分の幸せを追求するとしたら、個人が幸せに生きることを成り立たせるためにどのような周囲の条件が必要となると考えるか、と提起された。これに対して、地域で活動するときにベースにしているのは個人の生活の安全性や心身の健康や経済的な部分だが、地域には他人のケアをする人も必要で、より多くの人に地域に触れることを楽しいと思ってもらいたくて活動をしている、との考えが紹介された。これに関連して、地域にケアの役割を持って関わることで地域で起きている問題に直面するのであれば、その関わる人の安心安全とは裏腹ではないか、と投げかけられた。これについては、まさしくそうであるからこそ、仕組みとして地域で支えられるようにすることが大切で、地域にそれを支える緩やかなネットワークが必要だと考える、と回答があった。また別の参加者からは、地域で活動している実感として、自分では地域の中に地域を新しく作っているという感覚がある、というコメントもあった。すなわち、地域には既存のさまざまなつながりや立場がある中で、自分が安心安全でないと感じる場とは距離を取り、自分の居心地の良い場を作ることで自尊感情が高まりエンパワメントされる、それができてこそさらに別の人々とも関わることができる、また、それが自分の目指したいことを確認する作業でもある、とのことであった。
<グループインタビュー後のふりかえり>
グループインタビュー終了後、日を改めて、アーカイブチームでふりかえりを行い、次の意見交換会に向け議論のポイントを抽出した。
ふりかえりの中で最も印象深いこととして挙げられたのは、各話題提供者の地域への関わり方や地域における立場などが全く異なっていることから、三者三様の地域づくりと学びづくりの様相が浮かび上がったことである。上村さんは、NPOという組織として行政とも協働しながら、どのようなシステムを地域に作るのかという課題にコーディネーター的な立場から関わっている。大野さんは、そこに暮らすバーの店主という生き方のオルタナティブを地域で示し、それをバーという形で地域に開いて暮らしという形でシェアするようなつながり作りをしている。さらに小黒さんは、教員という立場から、自分自身を介して子どもたちと地域の人や組織・団体をつなぎ、両者の出会いと協働をコーディネートし、同時にそこの生活者でもある自分自身も地域とのさまざまなつながりを紡ぎ、その間を行ったり来たりしている。グループインタビューではあえて話の枠組みを緩く設定して対話を進めたことで、対話の中から地域での多様な人間模様や人間臭さ、話題提供者のこだわりなどが浮かび上がる面白さがあった。またそうであるからこそ、それぞれから見えている地域の様相がかなり異なっているであろうことが想像された。
二点目として、「ケア」という概念とそれに関わる議論の展開が挙げられる。学びあいフォーラムでは、このグループインタビューまで「ケア」をキーワードに議論が展開されたことはなかったが、ここでは自分自身や地域の人々が地域に参加していくという文脈において、他者へのケア、自分へのケア、ケアを提供できる地域のあり方などを巡り、ケアに関わる議論がたびたび展開された。そこでは、ある特定の統一した概念としてのケアではなく、ある場合には、地域でケアを提供するネットワークや仕組みづくりという観点からケアが論じられ、また別の場合には自分を含む地域の人々のエンパワメントの観点から、さらに別の場合には、人間と人間、あるいは人と社会との関係性という観点からケアが論じられるというように、それぞれの地域の現実や実践が多様であるのと同様、そこから語られるケアも多様なものになるという実感があった。
さらに、三つの事例に共通する点として指摘された参加や協働であるが、そのありようもまたケアの場合と同様に多様であることに注目した。例えば話題提供者自身の参加のありようだけを見ても、市民活動を通じて行政と協働しながらコーディネーター的な立場から地域の課題に取り組むというアプローチも、一住民として地域で生業を営みながら自分の暮らしを地域とシェアするような形で課題に向き合うアプローチも、教員としての立場と一住民としての立場を行ったり来たりしながら周囲の人と関わり課題に向き合うアプローチも、その問題状況や活動の場、方法は異なるがどれも一つの参加や協働の形である。さらにそれぞれの活動の中で、人々の多様な参加と協働が生まれている様子が見てとれる。グループインタビューでは、参加や協働に関しても統一した概念で語られたわけではないが、そのことによって良い意味で相互に若干の相違が見られ、むしろ多様さがより具体的に浮き彫りになったと感じられた。
また、個人の生き方としての暮らしの実践から地域や社会を見るという意味での暮らしにも注目した。暮らしは個のレベルの最も身近で具体的な活動であり、個人の暮らしのありようとそこを取り巻く地域や社会のありようは当然相互関係を持ってくる。しかし暮らしのありようと社会のありようがつながっていると一言で表現しても、それらがどうつながっているのかにはさまざまな捉え方があるだろう。開発教育も含め問題解決型のアプローチでは、個人の暮らしや生活の位置付けは、ある問題を解決するために生活の中で一人一人がどう行動していくのかという、解決のための方策の一つとされがちであった。一方ここで話題にされた生き方としての暮らしはそうしたものではなく、そこにおける政治経済文化も含め個人が生きることそのものを指し示す概念として現れている。そのような意味合いでの暮らしは、いわば地域(ローカル)〜国(ナショナル)〜世界(グローバル)のように多層的な社会の層のうちの一つの層として位置付けられるような社会の一様相を表すものであり、暮らしのありようを捉え直すとは、すなわち社会のありようを捉え直すことそのものとは言えないだろうか。そして、あらためて暮らしに注目することの意味とは、暮らしの延長線上の社会が良い形で機能している時は問題がなくても、逆に社会のありようが暮らしを脅かすものである時には、いかに私たちは暮らしを守れるのかという、いわばその対抗軸またはオルタナティブとして、暮らしをあえて位置づけるという、より積極的な意味合いに注目するからである。
<意見交換会>
本意見交換会の趣旨は、グループ・インタビューでの話題提供者の発言を受けて、過去に学びあいフォーラムに関わってきたさまざまな地域や分野で活動するメンバーと、話題提供者とが直接意見交換することである。ただし意見交換を通して何らかの共通見解を見出すことを目的とするのではなく、参加するそれぞれが地域への関わり方や立場、経験などが違うことから、見えてくることも当然異なってくる、という点を大切にし、そうした違いも含めてあらためて見出せる開発の視点とはどのようなものかを探ることを目的とした。したがって意見交換の過程では、用語の定義もあえて統一して議論するのではなく、互いに同じ用語を使っていたとしても、互いの意味合いが多少ずれているかもしれない、ということを念頭に置いて参加してほしい旨を伝えた。
意見交換に入る前に、事前にアーカイブチームでまとめた話題提供者の実践概要を説明するとともに、注目点を3点にまとめ参加者に提示した。その注目点とは、(1)三者三様、地域づくり・学びづくりへの多様な関わり方、見ている景色が異なる、(2)暮らしのありようと社会・地域のありようとの相互関係、(3)参加・協働・ケアと社会のありようとの相互関係、である。そもそも本プロジェクトで問い直そうとしている学びあいフォーラムの「四つの視点」は、開発教育の開発の概念から発想した視点である。一方でグループインタビューでは話題提供者を交えて対話をする中から、そうしたマクロ的な概念としてではなくより地域に即した形で暮らしのありようや参加・協働・ケアといったキーワードが出されたこと、同時に、それらのキーワードについてそれぞれの地域性を持って具体化される中で多面性が見えてきていることも、アーカイブチームによる見解として併せて紹介した。
表2:話題提供者の発言内容(一部抜粋)
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ここまでの報告を受けて、参加者からいくつかの論点が提示された。
まずケアについては、これまでケアという言葉は学びあいフォーラムだけでなく従来の開発教育でもあまり扱われてこなかったが、それが今回はこれだけ注目されたことが意外であったと指摘された。そして、ケア論の中でもミルトン・メイヤロフのケア論では「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」※4とされるが、それを話題提供者の話から感じることができた、との感想が共有された。さらに、福祉分野における「エンパワメントモデル」が紹介され、話題提供者の事例がそのモデルと似ているとの説明がなされた。すなわち大野さんの事例では、自分自身の可能性を開くために周囲の環境との関わりを大きくしていくことと同時に、それができるよう周囲の環境も強化していくことで、小黒さんの場合には、自分が周囲の環境にあえて踏み込んでいきその相互関係をつなげることで、いずれの事例も自分自身も環境(コミュニティ)もエンパワーされる具体的な実践が聞けたという印象を持った、とのことであった。さらに、個人の問題意識を共有する地域の範囲についても、課題に応じて無理なく自然にそれを変化させていることも、話題提供者の話から実感できたとのことだった。
また暮らしという注目点をめぐる議論では、事例提供者の方々はそれぞれの問題状況を自分ごととして捉えて、自分の暮らしや自分らしく生きるということに意識的であるが、そうでない人も多い中で、そのようになれるにはどうしたら良いか、と投げかけられた。これを受けて、そもそも学びあいフォーラムでは地域の変化や社会の変化を目指していたが、その大元は結局個人であるとなるなら、個人のありようを獲得する過程におけるさまざまな出会いや外部からの影響がある中で、そこにあえて何らかの教育としての関わりを持てるのか疑問を持った、との意見があった。これに関連し別の参加者からは、自分自身の学習と地域での実践が循環していく経験が紹介された。その経験から、自分が問題だと思ったことに対し周囲の人と学びながら行動してきたことが、6年以上経った今では地域で年代を超えて広がりを持ち、四重にも五重にも学びの循環となっていると感じている、そこには協働と参画はあるがスタートは個人ではないだろうかと感じる、とのことだった。また別の観点から、学びは個人の興味関心から始まるかもしれないが、地域には個人がそうした興味関心と自然と出会ったり、問題意識を深めたりするような機会や場面をあえて設定しているコーディネーターが、見えてはいないかもしれないが実は存在しているのでは、という指摘があった。学びは一人でもできるものかもしれないが、課題を認識したり深めていくような転機となるようなできごとは、例えばコーディネーターと呼ばれるような課題意識を持っている人があえてその機会を作っていかないとできないのではないだろうか、そしてその機会は、専門職や資格を持った人に限らず、何らかの課題認識を持つ人が意図して作るものではないだろうか、ということであった。
このような教育とケアとをやや対比させ、両者をせめぎ合うような関係性として捉えた中で議論が展開されてきた中で、さらに教育の枠組みをより広く考える視点が提起された。すなわち、教育は意図性を持った一つの働きかけとして、どのような意図性を持って働きかけるのかという議論になるが、学びの一つの考え方として、日々の生活のいろいろな出会いの中で意図性なくして常に起こってくるものが学びだ、というものがある。教育の枠組みをここでは学びのように捉えれば、それはケアと同様に人と人とが関わり合っていく中での関係づくりという視点で見ることができるのではないか、という指摘である。
さらに教育とケアをめぐり、意図性の度合いが大事なのではないか、という見方も挙げられた。すなわち、教育を「する」、ケアを「する」、というといずれも意図性の度合いが強い印象があるが、それが教育に「なる」、ケアに「なる」というと意図性の度合いが低くなると感じる、ということだった。そう考えると、例えば普段の暮らしのなかで働きかけるとか、普段の地域づくりの中で課題に向き合うといったことは、自然とケアにもなっているし、関係の紡ぎ直しも含めて学びの場を意図的に作り出すことで教育にもなっている、ということではないだろうか、反対にいわゆる「場づくり」とか「環境づくり」がはらむ意図性は、教育を「する」とかケアを「する」という場合と同様の意図性だと感じる、ということだった。
このケアや教育を「する」と「なる」の違いを受けて、開発や開発教育について考えを巡らせた次のような内容のやり取りもあった。開発する、という表現は外部からの働きかけを表し、そのオルタナティブとしての内発的発展という概念は自らが発展していくことを表している。開発教育では内発性や主体性を育もうと参加型学習に取り組むが、用語としては、開発する、教育する、というような外部からの強い働きかけや意図性を感じさせやすく、実際に外部のことを考える教育実践をしている人も少なくないのではないか。だからこそ学びあいフォーラムで、あえて暮らしや一人一人の個人、自分の地域ということに向き合う意味があると考えている。それは外のことを考えることが悪い、という意味ではなく、外のことがどうそれらにつながっているのかが大事で、課題の当事者性を突き放したり限定したり他者化したりすることなく、暮らしの当事者としてどう関わるかということではないだろうか。こう考えると、ケアや教育の出発点が個人の、しかも暮らしであることに、素朴で本質的な意義があると思う、とのことであった。
一方で、そのようなケアの考え方や定義についてはわかるが、いわゆる支援やケア労働とどう違うのかが明確ではない、事例報告者の事例がケアであるとそう簡単に言って良いのか、という指摘もあった。そして、開発教育ではケアという言葉を使ってきてはいないが、参加型学習の前提としてケアし合う環境を作ることを非常に重視してはいて、学習の場で参加のハードルを下げたり参加者が声を掛け合うなども全部ケアだとは思うので、今回をきっかけにケアに関心を持った、という感想が共有された。また別の参加者からは、参加型学習の実践における上述のような環境づくりをケアとするならば、教育に意図性があることを認識していることもケアに当たるし、意図を持った働きかけをしてもその先の行動については人それぞれのあり方を見守るようなこともケアであると考える、そして、自分のこれまでの教育の取り組みはケアなくしては生まれなかったと思う、との感想が出された。
暮らしと社会のつながりに目を向けたやりとりとしては、自分らしい生き方の実現に関連する話題提供者の「自分のやりたいことで割と生きていける」というメッセージに対して、それを可能にしている状況はなんだろうか、という問いかけがあり、現実には自分のやりたいことで生きていけない人もたくさんいる中で、社会の仕組みがどう変わっていくと誰もが好きなことで生きでいけるのかを考えていくのかが大事であるという指摘があった。また、このメッセージ性の強い言葉を地域で投げかけることは意図を持った働きかけであり、時に好きなことで生きてはいけないと思っている人へのケアでもあるという指摘に対し、話題提供者から、それは時にケアにもなるが暴力性も孕んでいるので気をつけなければならないと思っていると返答された。
一連の意見交換の後、あらためてグループセッションを行い、次の二つのテーマをめぐり意見交換をした。一つは、「暮らしの視点から捉え直す、地域のありよう・社会のありよう」についてであり、もう一つは、「地域のありよう・社会のありように向けての、参加・協働・ケアのありよう」についてである。ここでも個人の経験から自由に語ることで、どこかに議論を収斂させるのではなく、個々の経験から何らかの関連性や共通性を見出すことをねらいとした。
話し合いは多岐に渡ったが、例えば前者のテーマをめぐっては、地域における人の出会い方として、肩書を持って出会うとなんだかモヤモヤする、という話題や、地域に個人のしんどさをすごく抱えている人が多いが、そういう人たちも無目的で集まれるお茶会のような、フラットで敷居の低い場があるといい、という話題、コロナ禍の中で、地球環境という大きなことではなく自分の身体が身近な自然を求めており、そこでのつながりが必要であることが浮き上がった、という話題が上がった。後者のテーマについては、ケアの反対が何かと考えると自分本位で配慮に欠けることではないか、という意見と同時に、地域をどうしたいのかということよりまず自分本位に立ち戻りたい、という話もあって、二重の意味で自分本位という言葉が出てきたのが興味深かった、という報告があった。また、私たちはふりかえる癖がもうついていて、暮らしを見直すということも当たり前のように出てくるが、そもそも暮らしを見つめる必要性を感じる人がどれくらいいるのか、という話題もあった。
最後に、四つの視点にあらためて立ち返り、参加、協働、ケア、暮らしといったここでのキーワードと四つの視点がどのような位置関係にあるのかに注目しながら議論をふりかえった。四つの視点に関しては、自分にとっては日々の自分の働きかけを見直して立ち戻るための視点である、という考えや、自分のやっている開発教育がどんなものかをあらためて問い直す時の視点である、という意見が出された。また、今回のような意見交換が、四つの視点の内実を問い直す機会になった、との意見もあった。内実を問い直す、とは、例えば参加について考えるときに、必ずしも、意思決定への参加を前面に押し出してワークショップをするという方法でなくても、地域の中に話を聞く場を作るとか、意図性なく無目的に集まる中で課題を共有するなどの形でもできるのではないか、またそのように、地に足がついた地域の暮らしの中で課題を捉え直すとどのような意味を持つのかについて考えるヒントがたくさんあった、とのことであった。さらに別の見方としては、ケアという概念は公正の概念を超えるものだと考えているので、これからの未来の社会や地域、私たちの暮らしのありようを描く時のキーワードだと思う、との考えも提示された。
また地域の概念を巡り、その範囲の捉え方が物理的にも概念的にも多様で違いを感じたので、あえて価値観が異なる人の間でこうした議論を続けていくことが大事だと思った、という感想や、地域にはさまざまな側面を持った個人がいろんなつながりの中にいるがそれが人の面白さであり、それが集まっているのが地域だから地域は面白く大変なのだと思った、との感想もあった。
そのほか、自分自身が暮らしを大切にしたいと見つめ直す視点を与えてくれた一つが開発教育だった、というふりかえりや、開発教育が他の教育活動と違うのはこの四つの視点を持って働きかけるかどうかにすごく関わっているので、継続して話していかなければならないと思った、などの感想もあった。
<意見交換会後〜アーカイブチームでの議論>
意見交換会後にあらためてアーカイブチームでその議論をふりかえるとともに、ケアや暮らしといった今回新たに浮かび上がったキーワードを、学びあいフォーラムではどのような概念として使用するのかについて、アーカイブチームとしてあらためて整理した。
意見交換会の進め方については、いわゆるワークショップ型ではなく緩やかな枠組みの中での意見交換とすることを重視し、ある程度議論の幅を持たせるよう計画段階から留意していたが、そのことによって参加者から、それぞれの立場に立った深掘りしたメッセージ、あるいは各々のこだわりや個性が浮かびあがっていたことが、ふりかえりから確認できた。四つの視点を問い直すという目的の下で開発に関する理念的な議論に終始してしまうことを懸念していたが、意見交換会ではそこにとどまらず、一人ひとりが自分自身の暮らしや生き方に引き寄せるような話し合いがなされたことで、互いに新たな考え方や見方に触れることができたのではないだろうか。
そして緩やかな枠組みで話し合う中で、ケアや暮らしというキーワードをめぐりさまざまな角度からの意見が示された。アーカイブチームではその点に着目し、それらのキーワードに関わり提示された意見をあらためてどう解釈するのか、またどういった文脈でどのような意味合いで使用されるのかをめぐり、次のような意見交換がされた。
例えばケアについては、意見交換会で「ケアなくしては教育の意図性はなかった」というような投げかけがあり、ケアと教育の関係性が一つの注目点となった。また、みんなが気持ちよくそこに参加することができる状態がケアのある状態、自分本位であるとか配慮に欠ける状態がケアのない状態、遠くへの想像力がないとケアとは言えない、という表現もされていた。これらのことから、人と人との関係性の根底にケアがあり、だからこそ教育的意図性をその上に乗せられるという見方や、自分をケアすることと他者をケアすることが同時に成り立ち、狭い意味での他者をケアするというところに止まっていない捉えられ方がされていることを確認した。
暮らしをめぐっては、意見交換会では自分本位の暮らしをつくるという表現が見られた。これに関連して、地域で良い意味で自分本位の暮らしを作りだすことで、周囲の人たちとの繋がりは徐々に広がっていくのではないか、と具体例とともに投げかけがあったが、地域によっては実際にそうではない事例も多々見られることが紹介され、それらの事例間の違いには、元々の地域性に加えて、地元住民によるコーディネートが機能しているかどうかの違いも存在することを確認した。
また暮らしとの関連で、その社会的背景を確認するような内容の意見交換もあった。一つには、現在の個々人が暮らしを犠牲にして働かなければならないような社会状況、あるいは、画一的な生き方をしないと生きられないような社会状況のなかで、自分たちの暮らしのに向き合いそのありようを描きにくいという現実がある。そうであるからこそ、今、暮らしに力点を置く必然性があるのではないか。こうした問題状況に市民活動として取り組む事例がTENの立場であり、暮らしの立場から取り組むのが大野さんや小黒さんの事例だった。ケアへの注目も、暮らしを巡るそうした問題状況があるからこそではないだろうか。
そしてその現実の中で、こうした社会状況に乗っかるわけにはいかない、という危機意識からくる一つの動きが、若者の地方への移住ではないだろうか。しかしながら、地域の圧倒的多数は高齢社会にあり、元々の住民と移住して自分本位に暮らしをつくろうとする若者とがそこで異文化のように出会うが、両者の乖離は非常に大きいという現実がある。その中で、移住した若者が周囲の人たちと簡単に自然につながっていく、ということが起きるだろうか。都会のように人口が多くて課題を共有する人が近くに何人もいる、という状況であれば別だが、地方ではそもそも人口が少ない中で、場合によっては自分たちの暮らしを作りながら共同して課題を深めていく、ということ自体が難しい環境だと言えるのではないだろうか。いずれにしても、それだけ地域性が異なる中で、地域をある固定的な枠組みとして捉えるのは難しく、その文脈で課題に応じてさまざまな形を取るものとして捉えるしかないだろう。意見交換会でも、自分の考える地域と他の人が考える地域との違いを感じた、という感想が出されたが、そのことを機会として、その時々の文脈で互いに地域を確認していく作業が必要になるのではないか。
アーカイブチームでは以上のような議論に加え、ケアや暮らし、地域といった用語が、人それぞれに、それぞれの文脈で定義し使われる用語であることも再確認できた。地域の学びと地域づくりの多様性を尊重するならば、これらの全てにどう共通して定義づけるかということではなく、その都度互いにその意味あいを確認する作業にこそ意義があると言えるだろう。しかし一方で、アーカイブチームとしてこれらの用語を提示する際には、それがどのように使用されるのかを整理しておかなければ伝わらない。そこであらためて、ケアと暮らし、地域というキーワードを概念的に整理することとした。
・ケアの概念整理
まずケアについては、メイヤロフ(1987)※5、ノディングズ(2007)※6、西平・中川(2017)※7のケア論を参考に、学びあいフォーラムにおける議論との共通性を探った。メイヤロフのケア論では、「一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである」※8とされる。ケアの対象は必ずしも人だけではなく、新構想、アイデア、理想、共同体などにも広げられ、対象が多様であってもケアの本質は、相手が成長するのをたすけるという共通性がある、としている。例えば、作者にとってはこの構想、両親にとってはこの子ども、市民にとってはこの共同社会がケアの対象である。※9そしてケアがその人にとってのほかのあらゆる価値や活動と関連し総合的な意味を持つ時、その人は「世界の中にあって”自分の落ち着き場所にいる”のである」※10。このようにメイヤロフはケアを人間存在にとって最も基本的なものと位置付ける。またケアの要素として、正直、信頼、謙遜など8つ※11を上げている。
ノディングスのケア論は、メイヤロフのケアの概念を基礎にしながらも、それを教育との関連で展開している。ノディングスは「ケアすることとケアされることは、根本的な人間のニーズである。私たちは誰もが他の人からケアされる必要がある」※12と述べているが、そのケアの対象としては、「自己(self)」「親しい他者(Inner Circle )」「見知らぬ者・遠くの誰か(Strangers and Distant Others)」「動物・植物・地球(Amnimals, Plants, and the Earth)」「人工の世界(Human-Made World)」「理念(Ideas)」というように、多領域を含むものとしている。また、一つ一つの事象へのケアについてはケアする、ケアされると表現するが、ケアの双方向性がある状態をケアリングと表現している。
メイヤロフの場合もノディングスの場合も、ケアをすることについて、対象に対してたすける、あるいは貢献すると表現し、またその要素として例えば知識や忍耐、正直さが必要なこと、時には関係性の中でリズムを変えることでケアが成立すること、などを論じている。このことから、意図性という観点から考えると、両者ともケアについてある種の意識化された動きとして認識していると読み取ることができるだろう。
一方で西平・中川はスピリチュアルな視点からケア論を論じている。西平は、仏教の無心がケアにとって役に立つのかという問いに対し、無心の状態があるからこそケアは生きてくるという捉え方をしている。中川も仏教をベースに「行為としてのケア」と「存在としてのケア」を論じ、次のように説明する。「広大な心は存在の基盤であり、そこには自他の境界がない。それゆえ、そこでは『ケアする人』も、『ケアされる人』もなく、『ケア』もない。原初の境地には誰かがいるわけでもなく、何かをするということもなく、ただ存在するだけで、すでにいつでも完全であり、その意味において根源的なレベルでケアが果たされている。・・・『存在のケア』というのは、存在の深みからの恩寵である。…私たちにできることが何もなくなるその先では、何が起ころうと、ただ存在を信頼するしかない。.../このように述べたからといって、それは何もしないで、慈悲の実践に取り組まなくてもよいということではない。あくまでも最善のケアへ向けての努力が果たされるべきである。問題は、行為の次元だけでケアを捉えると一面的になるということである。ケアは行為だけで完結するものではなく、存在の深みを含めた全体から見られなくてはならない。」※13行為としての行為としてのケアは、相手に意図的に働きかけるような認識的なアプローチだと言えるが、「存在としてのケア」は、人が他者に何気なく関わりを持つような状態にそもそもケアが含まれるという捉え方である。このような見方でケアの関係性を見れば、そこにはある意味受動的な関係性も含まれ、意見交換会でのケアの意図性をめぐるやり取りにも重なるものがある。またそのような性質のケアに着目すれば、根底にケア的な関係性があるからこそ教育が成り立つ、と捉えることも可能になる。
学びあいフォーラムでは、持続可能な地域づくりのプロセスにおける学びあいによる関係性の変化に注目してきた。その関係づくりの土台として、互いの参加を尊重する協力的なコミュニケーションや、セルフエスティームやアサーティブネスといった考え方を参考にしている。これらの考え方の背景にある協力や受容、正直さ、信頼、希望といった要素はケアの要素とも共通しており、学びあいフォーラムでやろうとしてきたことがケアの諸理論とも通底していると捉えることもできるだろう。また学びあいフォーラムで、学びあいを働きかける相手への姿勢や態度という文脈で繰り返し議論してきた内容が、ケアの内実として展開されている内容と共通する点が多いという印象も受けた。
・暮らしの概念整理
暮らしについては、雑誌「暮しの手帖」の編集長だった花森安治を中心に、同時代に生きた松田道雄の暮らしをめぐる議論も追い、それらの中に暮らしに対するどのような見方があるのかを確認しポイントを次の3点に整理した。
1点目は暮らしを守る視点である。これには守るに足る暮らしをつくることで、暮らしを破壊する戦争から暮らしを守る、という意味あいがある。花森が「暮しの手帖」に関わる原点は、敗戦の日8月15日の夕方、焼け残った家々に灯る明かりを見て、この明かりのある暮らしを犠牲にしてまで自分が戦う意味があったのだろうか、守られねばならないのはこの明かりのある暮しではないのか、と考えたことだったという。※14日本が戦時体制になだれをうったのは「いのちをかけて守るに足る暮らし」がなかったためだと考えた花森にとって、暮らしを守るとは、反戦平和への強い思いの表れだった。こうして、それまでは男性イデオロギー一色の戦時文化の担い手として第一線で活躍してきた花森が、戦後は庶民の論理であり女性の領域とされた暮らしを守る生活文化の担い手となっていったとされる。※15当時暮らしとは、男性が担う公的な領域に対して、女性が担う私的な領域と捉えられ価値の低いものとされていた。そのような文化的様相は家電製品の製造やファッションなどにも固定的に現れているとして、花森はそうした固定観念を打ち崩すような企画を誌面で展開していった。
2点目は生活中心の民主主義という視点である。花森はエッセイ「見よ ぼくら一銭五厘の旗」で次のように記す。「民主主義の<民>は 庶民の民だ/ぼくらの暮しを なによりも第一にする/ということだ/ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら/企業を倒す ということだ/ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら/政府を倒す ということだ/それがほんとうの <民主主義>だ」※16。花森は戦争が終わり高度経済成長が進むなかで公害が拡大する現実を目の当たりにし、人々の暮らしや命を犠牲にしてまで利益を得ようとするやり方に対し暮らしを担う立場からそれらに対抗する視点を提示した。
3点目は生活の中の民主主義という視点である。松田道雄は「暮しの手帖」に寄せたエッセイのなかで、主体的に専業主婦を選択した女性は女性差別を逆手にとって家庭で女性解放をしようとする戦士であるとし、家庭で民主的な感覚を研ぎ澄ませ、国が男性によって物騒な方向に動かないようブレーキとなることを期待したという※17。そして生活の中で一人一人の自由や自分らしさを尊重して平等を実現することを目指し、固定観念や「あるべき」論、集団に自己の決定を無批判に委ねることを批判する。※18さらに戦後日本が民主主義国家になっても引き続き存在する差別的なしきたりを批判し、その具体例を多々あげながら、戦後日本で「問題だったのは、社会生活のなかの民主主義だった。その問題の解決をしないでいる現在の民主主義こそ虚妄なのだ」※19として、民主主義の法制度的側面だけではなく日常生活における平等や民主的なふるまいにももっと目を向けるべきだと主張している。
従来の開発教育の実践をふりかえった時、暮らしを巡るこれらの見方は示唆に富む。開発教育では、暮らしとの関連においては、例えば食から見える社会構造の問題といったような、構造的認識を持つ必要のある問題に対して力点を置いてやってきた。消費生活については取り上げられることも多いがそれは学習テーマとしてであり、暮らしそのもの、人生や生き方を具体化するレベルには至っていないように思われる。開発教育は開発の問題性もあって社会構造に焦点を当てるが、地域での開発を考えるときに、あらためて私たちの暮らしというレベルでもう一歩掘り下げ具体化していくアプローチもあって良いのではないだろうか。また生活文化の担い手という表現を見れば、私たちはこのようなレベルで暮らしを捉えているだろうかと考えさせられる。現実的には、日頃から生活文化に向き合いづらくするような社会的状況があるのであれば、戦時文化に生活文化を対峙させるように、自分らしく生きることを妨げているような文化性をそれに代わるものとして置き、その上で自分にとっての「守るべき明かりのある暮らし」を描くこともできるかもしれない。
さらに、暮らしとジェンダーの問題は密接に関連しており、地域によって多少の違いがあるが、多くの女性が家の外で働くようになった現代においても表に出るのは男性で、戦前の構造とあまり変わらない。都会ではその点が比較的自由になっていることも事実ではあるが、その反面、地域に根を張っているとは言い難い。開発教育は比較的都会型で展開してきたのだが、地域づくりに向き合うとなったときにそういった文化がどう変容していくのか、少なくとも、地域づくりや文化づくりが暮らしをつくるということと深く関連していくことは確かであろう。
・地域の概念整理
地域については、学びあいフォーラムで開始当初から依拠している山西の地域論※20を再確認した。山西は地域という言葉が多義的に使われていることを確認しつつ、地域を「特定の問題解決や課題達成に向けて住民の共同性に基づき形成される生活空間」として捉えるなら、課題に応じて地域の範囲は伸縮自在となり、地域の範囲は重層的に捉えることができる、としている。この場合の地域は、何らかの課題をコアにしてそこにいる人々が共同性を持って作り出していくコミュニティであり、地域には際限なく課題があるとするならばそれに応じた多様な多層的なコミュニティが存在している、という捉え方である。このように地域を捉えるなら、地域づくりとはそこでの問題解決や課題探求のプロセスそのものとなる。そして、そのプロセスから生み出されるものこそ文化であるとするなら、地域づくりは文化づくりであり、必然性の中で課題に則して文化が生み出されていく。
こうした地域と文化の捉え方を前提とすれば、権威づけられたものや権力によって差し出されたものに価値をおくような文化性、あるいは、伝統的で排他的な文化性も地域には実際にある中で、学びあいフォーラムで目指してきた地域づくりとは、ケアの関係性による文化性をそうした地域の中に作り出していくこと、といった見方もできるだろう。昔から地域にあるものにもそれなりの必然性があるが、変化させざるを得ないこともたくさんある。そのような地域づくりでは、地域が一様になるのではなく、さまざまな要素が多様性を保ちながらも関連性を持つことによって文化が変容していくと考えられるのである。
<まとめ〜四つの視点の位置付けとケアと暮らしの視座>
本プロジェクトは地域の立場からあらためて四つの視点をふりかえることを目的とした。一連の議論の過程では、別の表現も含めて地域の視点から生まれてくるものを大事にしたいという思いから、あえて四つの視点を意識せずに幅広く議論してきた。しかしそれでも、四つの視点に示されるものと共通の論点が議論の中に垣間見えることも多くあった。例えば話題提供者の事例では、問題解決のための仕組みや関係性を地域の人々主体で地域に作る必要性が主張されたり、グローバルな課題と日常をあえてつなごうとする試みも見られたりした。また議論の中で、地域の人々の参加や協働を大切にしている点がどの事例にも共通しているという指摘や、個人が”自分のやりたいことで生きていく”ことを妨げているような社会的背景に目をむけるやり取りもあった。
あらためて学びあいフォーラムの四つの視点をふりかえれば、それらは開発教育の立場からの持続可能性の捉え方であり社会的公正を重視した視点であった。社会的公正とは個人や集団が互いに立場や条件を異にしながらも不当な不利益や不都合がないようにすることで、それには決定プロセスへの関係者の参加が不可欠となる。そこで注目された関係性とは、社会づくりや地域づくりに政治的・経済的・文化的に参加する個人や集団の間の社会的な関係性であった。一方でケア的な関係性に注目して地域を眺めれば、そうした関係性を含みながらも、それを超えたより日常の暮らしに近い関係性をも含むという意味で幅広い社会的関係性が見えてくる。同時に、そこには社会的な関係性にはとどまらない、より根源的な個と個との関係性や、場合によっては個と自然やものごとなどとの関係性も含まれる。
例えば参加というキーワードを巡りケアと暮らしの視座を組み入れて見れば、その参加のありようは不公正な問題に対する具体的な行動や活動を伴う能動的な形に止まらない。人が他者との関係性を持ちながらそこに存在している状態そのものにケアが含まれると捉えれば、ケア的な関係性の中で存在することそのものも社会参加の一つのありようだと言える。そうした参加のありようはときに受容的であり、特定の問題状況においてのみならず日常の暮らしのあらゆる場面に見られる性質のものである。このようにケアと暮らしの視座が交わることで、地域における参加のありようをより包括的に捉えることができるのではないだろうか。
地域は本来的に包括的なもので、個別の問題が別々に存在しているわけでも、暮らしと社会の境界が明確なわけでもなく、あらゆる物事が複雑に交錯している。ケア的な関係性に注目することで、そうした地域の包括性を浮き彫りにし描くことに一歩近づくことができるのではないか。その意味でケアや暮らしの視座は、地域づくりのありようをより包括的に描く上で必要なことと言えよう。そして、開発教育が従来の持続可能な開発の枠を超えてこの先の開発のありようを描こうとするなら、これらの視座は一つの足掛かりとなるのではないだろうか。
<おわりに>
ケアと暮らしという視座は、主体性のありように対しても問いを投げかけてくる。つまり、地域でケア的な関係性を作りながら暮らしに参加していくような主体性は、「ともに生きることができる」主体性、共同的な主体性ということができないだろうか。公正を基本理念とする関係づくりが、例えば誰もが問題解決に向けて参加できる関係性をどう作るのか、あるいは内発性を重んじた関係性をどう作るのか、といったポジティブなものであるのに対し、ともに生きるという概念から見えてくる、暮らしやケアと関連する中での関係づくりの性質は、それらとは質の異なる、時に受容的な関係性であることも考えられる。そうであれば、「共に生きることのできる公正な地球社会」の実現を目指す開発教育は、どのような主体のありようを想定するのかという問いも、今後は大切になってくるのではないだろうか。
今回の四つの視点を地域の視点からふりかえる議論は、アーカイブチームが学びあいフォーラムのあり方そのものをふりかえる機会となった。とくに、開発教育の立場から地域のありようを見る私たち自身の見方に、学びあいフォーラム開始当初と現在の間で変化があることに気づくこととなった。こうした変化は、どちらかといえば当初は理念先行型で始まった学びあいフォーラムの中で、地域の具体性を持ちながら議論してきたことにより生まれたものであることは間違いない。私たちにこのような学びの機会を与えてくださった、これまでの学びあいフォーラムの参加者と関係者のみなさんに感謝したい。
話題提供者の大野のどかさん、小黒淳一さん、上村有里さんを始め、今回の議論に参加してくださった方々へ感謝の意を表します。
※1 各年度の事業詳細は、『持続可能な社会・地域づくりのための学びあいフォーラム報告書』(2017.3.29)、『持続可能な社会・地域づくりのための学びあいフォーラム2017』(2018.3.28)、『持続可能な社会・地域づくりのための学びあいフォーラム 2019 「持続可能な開発を促進する教育・学習」コーディネーター研修事業』(2020.3.20)を参照されたい。
※2 学びあいフォーラム「第13回検討委員会20161023議事録」(2016年10月23日実施)より抜粋。括弧内は筆者による補足。
※3 FEC自給圏とは故内橋克人氏(経済評論家)が提唱した共生経済のあり方で、食料(Food)、エネルギー(Energy)、ケア(Care)の自給圏を形成していくことで市場原理至上主義に基づくグローバル経済の荒波に対抗するという考え方。
※4 ミルトン・メイヤロフ著、田村真・向野宣之訳『ケアの本質 生きることの意味』(ゆみる出版、1987年)p.13より。
※5 ミルトン・メイヤロフ(1987)『ケアの本質 生きることの意味』田村真・向野宣之訳、ゆみる出版。
※6 ネル・ノディングズ(2007)『学校におけるケアの挑戦: もう一つの教育を求めて』佐藤学監訳、ゆみる出版。
※7 西平直・中川吉晴(2017)『ケアの根源を求めて』晃洋書房
※8 メイヤロフ前掲書、p.14
※9 メイヤロフ前掲書、p.27
※10 メイヤロフ前掲書、p.15
※11 前掲書によれば8つとは、知識、リズムを変えること、忍耐、正直、信頼、謙遜、希望、勇気。
※12 ノディングズ前掲書、p.11
※13 西平・中川前掲書、pp.258-259
※14 馬場マコト(2011)『花森安治の青春』白水社。
※15 天野正子(2014)「花森安治―<くに>をみかえす暮しの美学」趙景達ほか編『講座東アジアの知識人 5さまざまな戦後』有志舎。
※16 花森安治(2020)『花森安治選集第3巻 僕らは二度とだまされない』暮しの手帖社、p.309。「見よ ぼくら一銭五厘の旗」から一部抜粋。
※17 秋山洋子(2003)「『暮しの手帖』を読みなおす 花森安治と松田道雄の女性解放」加納実紀代編『リブという<革命> 近代の闇をひらく(文学史を読みかえる7)』インパクト出版会。
※18 さらに松田は「戦争への抵抗は日常を大事にすることだ。情報が巨大な商品であり、情報が巨大な他の産業に活気を与えている社会では、新規なもの、センセーショナルなものに警戒し、乗せられないように平常心を平素がけることだ。/平和を守るのに、殉教者のような反戦活動家より、普通の主婦の日常の尊重に期待する所以である。」(『日常を愛する』筑摩書房、1983年、p.122)として暮らしを戦争への抵抗と位置付けた。
※19 「戦後民主主義は虚妄か」(1987)「世界」1987年11月号、p.136。
※20 山西優二(2008)「これからの開発教育と地域」山西優二・上條直美・近藤牧子編『地域から描くこれからの開発教育』新評論、 pp.4−16。