三宅唱「ケイコ目を澄ませて」評
この音楽を終わらせないために
鉛筆が机上をコツコツと打つ音につづいて、縄が床を規則正しく打つ音が響き渡る。場面が変わり、薄暗い部屋でひとりケイコが口に含んだ氷を噛み砕くゴリゴリという音、明滅する街灯の光に舞い落ちる雪が反射する。古いを通り越し、老朽化が進んだジム内で練習する選手たちの姿。トレーナーとミット打ちをするケイコのグローブがミットを打つたびに鳴る乾いた破裂音、それはパンチを打つ角度や強度の違いによって様々な音のバリエーションを生む。トレーナーの松本とケイコはまるでジャムセッションのようにしてそれを楽しんでいるようだ。
このように、冒頭のわずか数シーンだけでも永遠に観ていたいと思わせるほど、研ぎ澄まされた映像の稠密さの連続はただごとではない。
今こそ求められる、サイレント映画時代の「間」と鑑賞態度
「ケイコ目を澄ませて」という映画タイトルとは裏腹に、この映画は耳を澄ます映画でもある。なぜなら、この映画を通じて私たちは、様々な音のテクスチュア、温度のようなものと再会することになるからだ。それは日常生活において、私たちがこぼれ落としていたものだ。映画はそれを拾い集め、私たちの目の前に差し出す。
音。それは原初の映画が技術的な面で断念せざるを得なかったものである。そして私たちにそのことを想起せよ、とこの映画は訴えかける。
前半と後半、ケイコと弟が話すシーンにおいて、かつてのサイレント映画のように、画面人物がしゃべると一旦画面が暗転し、セリフの内容が字幕で映し出される。私たちは強制的にこの時、サイレント映画の「間」を経験することになる。さり気ない演出だが、ここには三宅監督による極めてクリティカルな現代映画に対する批評をみる。観衆を飽きさせないために性急なテンポや、予定調和、伏線の回収、といったエコノミックな演出、脚本に腐心し、またその現代映画的な「間」に慣らされ切ってしまった私たちに、態度を改めよ、と彼は言っているのだ。(そして私は密かに三宅監督は全編このスタイルで撮りたかったのではないかと勘繰る。なぜなら、この映像と文字が絶えずずれ、時差を生んでしまうサイレント映画の「間」は、明らかに私たちの世界とは異質であるいっぽう、しかし、本来「目にすること」と「聞くこと」とは相容れない独立したセパレートな機能であることを過剰なまでに暴きたて、私たちを戦慄と陶酔へと誘うからだ。このような体験はサイレント映画でしか体験し得ないものだ。)
私たちの周囲には映画が溢れている。そして観たいと欲望すれば、NetflixやAmazonプライムでいつでも好きな時に映画を享受することができる。これに対し、サイレント時代の観衆にとって映画とはある一定の期間を過ぎれば二度と観る機会のない儚い夢のような存在であった。
サイレント時代の観衆と私たちとを比べた時、映画と私たちの距離は比較にならないほど近くなった。欲望の赴くまま映画にアクセスし、次から次へと蕩尽しつくす。私たちは映画を畏れない。映画を惜しまない。しかし、これを豊かさと言えるだろうか。むろん言えるはずがない。
テレビ、ビデオ、DVD、そしてNetflixに代表されるストリーミングへと、私たちは映画との距離を漸近的に縮めながらも、その代償として映画に自分自身の存在を預けわたす能力、つまり「目を澄ま」す能力を喪失してしまったと言えるのではないか。
ジムの会長がインタビュアーに答えて言う「ケイコはね、目がいいんですよ。」とは、私たちがサイレント時代の観衆と比較した時、著しく劣化してしまった能力であり、また同じシーンでインタビュアーが、なぜケイコがボクシングをやり続けるか、という問いに対する会長の答え、「ボクシングで相手と殴り合ってると、頭の中が真っ白になって他に何も考えなくなる。それが楽しいんじゃないですかね。」という態度こそが現在、映画が当たり前に偏在する環境に身を置く私たちが、なによりも取り戻さなければならない姿勢なのではないか。このように、私たちに極めて根源的な問題提起をする映画でもあるのだ。
虚心に、そして無邪気に映画を見ること。かつてのサイレント映画に酔いしれた観衆のように。一度見終われば、もう二度と出会えないものとして映画を観ること。今、ここで生起しては消えゆく泡のようなショットの数々を愛で、惜しみながら反復不可能な一回性の儀式として映画を観ること。タイトルにあるようにそれは「目を澄ま」すことを要請される。
そのように「目を澄ま」してこの映画を観ると、人物が店を出て、友人たちと別れ、通りを歩いたり、橋の橋脚に揺らめく水紋の影が照り返されたり、光の中に埃が舞い散ったり、という、ただそれだけで私たちの目を楽しませてくれていることに気づくだろう。そう、リミュエールの傑作、「工場の出口」における、労働者が工場からはけていくシーンの本源的な豊かさを思い出してほしい。そこには特殊なギミックなど入り込む余地などない。私たちが目を澄ませば、世界は汲み尽くせないほどの豊穣さで溢れているのがわかる。映画はそのことをいつも私たちに気づかせてくれていたのだ。ただ、私たちが「目を澄ませ」るのをしなかっただけなのだ。
ケイコの鼓膜は振るえない
同時に、私たちはこの映画内で生起する多種多様な「音」に驚かされる。リミュエールの映画が人々に、その世界の豊かさを映像で指し示したように、この映画は、世界にはこれほど色とりどりの「音」が鳴っている、ということを私たちに再認識させる。そしてそのこぼれ落ちる音の響きに圧倒される。なぜ圧倒されるのか?それは前述したように、私たちが日常において、無意識に捨象し、聞き逃している「音」の数々を、映画が現前させているからにほかならない。この世界では、人といわず、物といわず、自然物といわず、ありとあらゆるものが世界と摩擦することによって独自の音を鳴らしている。そのことをこの映画は気づかさせてくれる。
音はなぜ鳴るのか?それは物と物とがぶつかり合い、或いは触れ合い、或いは接触することで空気が振動することにより鳴るのだ。しかし、それだけではむろん音を感知することはできない。その空気の振動が、私たちの鼓膜を振るわせることではじめて私たちは音を知覚する。
ケイコの鼓膜は振るえない。だが、ケイコという存在(そして彼女自身も含めて)は、他者と剥き出しで接触することによりかくも色あざやかな音を私たちに響かせてくれる。再度ジム会長のインタビューより。「ケイコは人間としての器量があるんですよ。率直で素直で。」だからこそケイコと拳を交えた者、それを見た者たちは皆、彼女に魅了されていくのだ。ケイコと激しく対戦した相手も、土手で偶然彼女を目にしたらば声を掛けずにはいられないし、トレーナーの松本は彼女とのミット打ちがいつも楽しくて仕方がない。(前述したように音楽を奏でるようだ。いや、実際そうなのだ。この松本とのミット打ちのシーンは映画の随所に挟み込まれ、さながら映画のテーマ的な機能を負っているからだ。)そしてまた、ケイコの母親だけが、この圏外にあるのは、彼女がケイコのボクシングの試合を直視しえないことに理由がある。
ケイコが動き、周囲の空気と擦り合わされて音が鳴る。その時、ケイコ自身が楽器となる。ケイコの弟が音楽家であることは、彼女も同じ資質を共有していることを示唆する。
ケイコは耳こそ聞こえないが、本質的に音楽家なのだ。ケイコが閉鎖したジムから新たな受入先のジムを「家から遠いから」という取ってつけたような理由で断るのもそういった理由からだ。新しい受入先のジムは最新の設備が整った近代的な建物で、閉鎖されたジムとは対照的である。しかし、ケイコにはそれが気に食わない。ケイコにとって古くて雑音だらけだが味のあるヴァイナル盤のような音を出してくれるかつてのジムだからこそ自分はボクシングに打ち込むことができたのであり、それに比して最新のジムの何もかもが清潔で整理されたツルっとした音色のもとでは自分はボクシング(音楽)はできないし、やりたくもない。それを象徴するのが、ジムの女会長が差し出すiPadと、かつてのジムで言葉のやり取りをしていた薄汚れたホワイトボードとの違いである。ケイコが新しいジムを拒絶するのはもっともだと誰もが納得するシーンだ。
文字と音との角逐
ケイコは声の代わりに文字を頼りに世界と接点を持つ。文字。文字はこの映画の陰の主役と言えるかもしれない。なぜなら、聴覚障害者のため、全セリフはもちろんのこと、自然音までが悉く文字化され、映画のはじまりから終わりまで、終始私たちは文字を目にすることになるからだ。それだけではない。ケイコの日記や、スマホのメッセージ、意思疎通のために使うホワイトボード、ケイコの受け入れ先を探すため、林が繰る手帳に書き込まれた文字など、文字があらゆる場面で登場し、前景化するのだ。
その時私たちは、ケイコの目で世界を見ることになる。音を感知できないケイコは、目にする事象(人が話したり、木々が擦れたり、といったあらゆる事象)を文字(手話もこの際文字としよう)によって翻訳する。文字はケイコにとって世界の水先案内人なのだ。
私たちは、このように、森羅万象が文字によって変換、圧縮される様子を映画で目にすることになる。しかし、言うまでもなく、世界は本質的にノイズまみれであり、文字によって完全に翻訳することなど、はなから不可能である。世界はいつも文字からこぼれ落ちていく。(そしてまた、私が今、書いているこの文章もそうだ。この映画の手に負えない豊かさの前で、私はあらかじめ敗北することを決定付けられている。この映画から与えられたパッションをどれだけ文字で書き連ねてもすべて言い尽くしたことにはならない。)
このように、一見するとスロウに流れるこの映画の裏側では、実は文字と音による絶え間ない相克の劇が演じられているのだ。そしていつも音の豊かさの前に文字は敗北する。それを象徴するシーンがボクシングの試合シーンで私たちは目にすることになる。
対戦相手に熱くなったケイコの目には、セコンドが出す文字や身振り、といった指示が目に入らない。目に入った時にはもう遅い。この時差は致命的である。このように、文字は世界=音に対していつも敗北する。その拭い去りがたい時差によってだ。
だからこそタイトルにあるように「目を澄ま」さなければならない。音と文字を接続し、共闘させるために、いま一度世界に目を澄ますこと。それはそっくりそのまま私たちにもいえることだ。
受け継がれる赤い野球帽
音同様に私たちはこの映画で様々な質感、温度の視線に出会う。
ジム会長のケイコを見る眼差しはいつも温かい。そのぬくもりの中でケイコはいつも自分自身であることを許されている。ケイコにとり会長の存在は時には父であり時に恋人でもある。土手や、鏡の前で会長の身振りを真似るケイコの姿に、小津安次郎の「父ありき」やヴィム・ベンダースの「パリ、テキサス」の父子が互いを模倣し合うシーンを思い出したのは私だけではないだろう。
また、会長が差し出す水筒や手渡される赤い野球帽には、仄かなエロティシズムが醸される。特に赤い野球帽は重要である。赤い野球帽は会長の肉であり血でもあるからだ。直後に会長が脳出血で倒れることがそれを裏付ける。ケイコは会長の野球帽を文字通り血肉化させる。再起を決意するラストが感動的なのはそのためなのだ。
対して母親はボクシングをするケイコを受け容れられない。その視線はいつもケイコから逸らされるか伏せられる。その視線が遂にケイコに注がれる時、その時こそ母親がケイコを真から受け容れる時である。
差し出されることのない手紙
なんでも正直に言うケイコがなぜ「一度、お休みしたいです」というシンプル極まりないメッセージを伝えられずにいるのか?ここでも文字は致命的な遅れを露呈する。
それは幾度も逡巡、躊躇、保留され遂に相手に届かず破棄される。
実はこの一連の顛末は、あらかじめ演ぜられている。
ある練習生がジムの方針に納得がいかず、ジムを辞めるシーンがそれだ。練習生はトレーナーの林に退会の手紙を託す。林が「会長に直接渡した方がええんちゃうか?」と諭すが、相手はそれに対し特に何も言うこともなく適当な挨拶を述べてジムを去っていく。
ケイコにとってそんなやり方は言語道断である。練習生は文字の脆弱さにあまりにも無知であり、過信している。どんな時でも自分の意思は直接相手に伝えなければならない。だからこそ会長のもとへ直接手紙を受け渡そうとする場面が、他のどのシーンより緊迫感があるのだ。さながらサスペンス映画みたくケイコの心情と私たちの心情が重なり合う。
結局、手紙は渡せず、ポストに投函しようとする。しかしそれはケイコの信条とは相反する。それならばこの言葉を自分だけで飲み下そうとばかりに握りつぶす。
再度問おう。ケイコはなぜこんなシンプルなメッセージを発信することができなかったのか?
私たちは、ケイコが職場の同僚に「試合の次の日くらい仕事休んだら?」と言われて「いえ、一度休んだらサボり癖がつきそうなので」と断るシーンを思い出し、その理由の根拠として、とりあえず納得しようとする。
しかし、もちろんそうではないのだ。ケイコの生活を思い出してみよう。早朝目を覚まし、走り込みをする。バスで職場に向かい、ホテルのベッドメーキングを丁寧にこなす。仕事が終わればジムへ行き練習だ。家に帰れば食事を作り、後片付けをし、弟やその恋人と歓談する。これら日常の営為がとても規則正しく、まるで音楽の韻律のように奏でられる。いや、もうこれはメタファーでもなくケイコにとり音楽そのものなのだ。そう、ケイコはボクシングを辞め、引いてはこの韻律豊かな音楽を終わらせたくないのだ。だからこそケイコのもっとも良き理解者であり、こう言ってよければファンでもある会長が、ケイコの試合のVTRを観ながら一人熱狂する姿を見て、ケイコが翻意するのはそのようにして理解されなければならない。自分を応援してくれる者たちのためにもこの音楽を終わらせるわけにはいかないのだ。
小休止(ブレイク)ののち、やがて音楽は再演されるだろう。冒頭と同じく縄跳びの縄が快く床を打つ音がそれを私たちに予感させる。
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