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「男性か?女性か?の前に、私はひとりの人間です」 届かなかった言葉の意味と、本末転倒な“多様性”

初出:wezzy(株式会社サイゾー)

はじめに


「男性か?女性か?の前に、私はひとりの人間です」

 これは1990年代に海外で、DSDs:体の性のさまざまな発達(性分化疾患)と呼ばれる体の状態を持つ人びとが、社会に向けて訴えた言葉です。このフレーズは日本でも「インターセックス」を扱った小説やコミックで引用されました

 しかし残念なことに、この訴えは当事者の意図とは違う形で受け止められ、使用されてしまいました。

 この言葉が本来切実に訴えようとしていた意味は、DSDsといった体の状態を持つ子どもや人びとが、1950年代から当時、医療現場でどのような扱いを受けていたかを知っていただけるとわかるかもしれません。「男性か? 女性か? の前に、私はひとりの人間です」という言葉の意味を考えながらお読みください。

 次のページで昔の海外の例をいくつか出してみましょう。いずれもまだ、このような体の状態が、「ハーマフロダイト(両性具有・男でも女でもない性)」と呼ばれていた時代の話です。(なお,現在ではこのような表現は、多くの当事者のみなさんの心を傷つけるものとして、使われないようになっています)。

 なお、先に付け加えておきますが、現在の日本のDSDs専門医療機関では、患者家族のみなさんに対して、本当に人間を大切にする医療を提供しているところがほとんどです。

これ以降は、当事者家族の皆さんにはたいへん辛い描写が含まれています。

陳列される身体

 自分の性器の他の人との違いに苦悩し、DSDsのひとつが判明したある女性は、診察室に入ると、多くの研修医が待ちかまえていました。「男でも女でもない珍しい症例」を見るためです。彼女は研修医に取り囲まれ、性器をジロジロと見られる中で触診を受けました。ある研修医がふと言いました。

「へえー。こんなふうになってるんだ……」。

 あるDSDを持つ女の子は、外性器の手術後、「その手術がどれほどうまく行われたか?」と、外性器をビデオで撮影されました。医師たちはニコニコしながら「大丈夫だから、大丈夫だから」と泣き叫びながら逃げる女の子を捕まえて、ビデオ撮影を続けました。

 生まれた時に外性器の形状でDSDが判明する赤ちゃんには、心臓や内臓など他の多発的な身体障害を伴っていることも少なくありません。ある赤ちゃんは当時の簡単な検査でも性別はすぐに判明しましたが、それ以上に他の身体障害にすぐに対応しないと生命が保たない状態でした。親御さんは赤ちゃんが生きながらえるかという恐怖と不安、それに健康に産んであげられなかったという罪責感に圧倒されていました。ですが、医師たちが親御さんに興奮して話したのは、あの外性器だと男児には小さすぎて女児としては大きすぎる、どうするか?という話でした。

 初潮が来ないことをきっかけに、XY染色体であることがわかったある女性(女性です)は、担当の婦人科医に、「あなたは外見が女性なだけで、自分を女だと思いこんでる」と言ってのけられました。そんな酷いことを何のセンシティブさもなく言ってのけることに、彼女は大きなショックを受けました。(この医師には、染色体みたいなものしか見えていなかったのかもしれません)。

 あるDSDを持っていることを告知され、混乱と不安と恐怖の渦にいた女性の前に、心理学者が現れました。心理学者が差し出したのは、自分がどれほど男だと思うか? 女だと思うか? 彼女の男らしさ・女らしさがどれほどのものか、男性・女性どちらがどれほど好きかを測定する質問紙でした。その心理学者は彼女のような人たちの研究から、社会が強要する「男・女らしさ」には意味が無いということを証明したいのだ、と言いました。彼女の不安と恐怖はさらに高まりました。

 性器の写真や全裸の姿の写真を撮られる人・子どもたちも少なくありませんでした。もちろん、複雑な手術の手順などを新しい医師に学んでもらうために、患者さんが麻酔中などに該当部位の写真撮影されるようなことはあり得ることではあるでしょう。触診も診断のためには必要です(それでも、なぜそれが必要なのかという十分な説明と、本人や親御さんの許可が必要でしょう)。ですが、昔はなぜか、患者本人の医療的には全く不要であるにも関わらず、子どもでも成人でも、全裸にされて全身の写真を何枚も撮られるということが少なくなかったのです。

人間から心を引き剥がし、「カラダ」だけの存在にする

 想像してみてください。生まれてきた赤ちゃんが生命の危機にひんしている中、性別はわかっているにもかかわらず、性器の形やサイズが「普通」と違っているというだけで、男として「適当」なのか女として「適当」なのか、そんな話をされる親御さんの気持ちを。

 自分の性器の他の人との違いに深く苦悩している女の子や女性が、「男でも女でもないモノ珍しい症例」のように、多くの人間に囲まれて興味深げにジロジロ見られるという体験を。

 基礎知識でもお話したとおり、DSDsは、その診断だけでも、当事者の方にとってはトラウマ体験にもなりえます。そんな時に、その人の染色体や性自認、性の理想の話(もちろんそれ自体は大切でしょう)ばかりに目を向けられ、何か別の目的のために証明材料のように扱われた時の気持ちを(当事者の大多数は、むしろ切実に女性・男性なのです)。

 DSDsのひとつを持つ海外のある女性の次の言葉は、このような非人間的な状況を的確に表しています。

「誰も私の眼を見なかった。「大丈夫?」って言ってくれた人はひとりもいなかった。シーツを取ったら今度は私以外見なくなった。こう思ったの。「この人達のように体から心を引き剥がせたらこれは終わるんだ」って。」

 珍しい標本であるかのように撮影された写真は、決まったように当事者の方の眼の部分が黒い帯で隠されていました。プライバシーを守るためという意味合いがあるのでしょう。ですが、眼は隠しても、最も私的な領域であるはずの性器や裸体を撮影するというのは、「プライバシー」の意味としても全く倒錯した話です。北米のある活動家の方は、このような写真で当事者の眼を隠すのは、撮影する側が「一方的に見る側」であり、そのカラダを自分の自由に行使してよい立場であることを示していると、正しく指摘しました。

 また、このような写真をDSDsの説明に使うことは、本人が許可したからOKというものではないことも、人権支援団体で昔から指摘されています。そういう写真を見ることで、当事者家族のみなさんは、やはり自分たちは見世物のような扱いを受ける存在なのだと思わせてしまうからです。ですが、そのような全裸の写真や絵を、あまつさえ多様性のひとつとして取り上げるようなことまでありました。

 残念ながら私たち人間は、部屋中の壁に様々な蝶の標本をピンで留めて、多様性を謳えてしまう生き物でもあるようです。ですが、そのような本末転倒は、自分の望みと異なる「心」を持つ他者、人間を当たり前の人間として尊重しようという、本来の「多様性」という理念には全く反するものです(もちろん、こういった背景をご存じなく写真や絵を使っている方もいらっしゃるかもしれません。そういう方には、以降絶対に使わないよう、どうかお願い致します)。

当たり前の、心を持つ人間として

 DSDsを「男女に分けられない人」と誤解している人には、 「男性か? 女性か? の前に、私はひとりの人間です」という言葉に、「男女を超えた存在」や、男性・女性という枠組みから解放された世界というものを夢見た人もいるでしょう。それは、「インターセックス」を取り扱った小説やコミックでも同じでした。

 ですが、1990年代に掲げられたこの言葉の本当の意味は、先に述べたような昔の医療状況に対して発された、「まず当たり前の人間として扱ってください」という切実な訴えでした。もちろん、どのような体の状態であるか、生命の危険性がないかを調べ、患者さんが必要とする治療を行っていくための検査・診断は必要です。現在の日本のDSDs専門医療機関では、検査にしても「珍しい症例」としてではなく、「人間」を絶対に見失わず、患者家族のみなさんを大切にする医療が行われています(僕も、自分の小学生の頃とのあまりの違いに驚いたほどです。ここには、人を「(珍しい)症例」として見たり、身体の一部分に還元するのではない、「全人的医療」へのパラダイムシフトがあるのです)。

 しかし、その人個有の心を引き剥がされ、ひとりの人間であることも奪われ、一度「モノ化」されてしまったカラダは、また更に容易に人びとの一方的な望みや欲望のために行使されてしまいがちです。

 「男性か? 女性か? の前に、私はひとりの人間です」という言葉は、社会に出た時、その背景は捨て去られ、結局同じように「男でも女でもない」というイメージを投影され、「性別からの解放という物語」に単純化されてしまいました。やはりそこでは、心を剥奪され、モノ化されたカラダが、悪意であれ善意であれフェティシズム的興味であれ、他人の自由に行使され、多くの当事者家族のみなさんの眼や口は塞がれたままということになったのです。これでは、「私はひとりの人間です」という切実な訴えは、むしろ裏切られてしまったと言えるでしょう。


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