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「はみだしの人類学 ともに生きる方法」 松村圭一郎著

わたしはインクルーシブデザインと人類学に強い関心を持っています。
当たり前のことですが、生み出されたデザインを作るのもそれに触れるのも人類です。人類学を学ぶとインクルーシブデザインと共通することも浮かび上がってきます。わたしのプロフィールに「全人類のためのプロダクトやサービスを生み出す」と書きました。なんて壮大なと思うかもしれませんが、全くもって当たり前のことです。なぜならわたしたちは人類だから。
人類学を学ぶことは、インクルーシブデザインにも大いに生かすことができると思います。本を読みながら、少しづつ探っていきます。

今回は、「はみだしの人類学 ともに生きる方法」から学びと心に響いた言葉を綴っていきます。(とても良い本です、ぜひ)

「光をあて、問いを立てる」

あたりまえに思える言葉や概念に対して違う側面から光をあて、問いを立てる。もともと文化人類学は、こういうあらたな視点を提示する学問

インクルーシブデザインはまさにここをやっていくものだと思います。
この言葉の入り口に立ってやっとインクルーシブデザインに向き合える、取り組めるのだと思います。

「点と点が線になり、やがて面になる」

なにより私が人に話を聞くことで、一人から聞いた情報が別の人の話とつながって、点と点が線になり、やがて面になって、少しずつ全体像が見えていく。そのひとつひとつの事実を自分で手探りしながら拾い集め、組み立てていくプロセスに、とてもわくわくしました。

「わたし」は唯一無二です。人類はその「わたし」という点々の集合体です。丁寧に全く違う点々を全方向から眺めるとどこか線になる部分があるのだと思います。それを手探りしながら組み立てていくということはインクルーシブデザインとも共通すると思います。それにわくわくできればいいなと思いました。

各自の調査を進めました。みんな関心はばらばらだし、話を聞く相手も違うので、持ち帰ってくる情報が違う。まったく別のとらえ方でその集落を描いていく。調査者が違えば、描かれる像が違う。文化人類学は、他のだれでもない「わたし」がやる意味のある学問なんだと感じました。

そして、多くの人たちの耳と目と声と言葉で、全く違う点を線にして違う現れ方を受け入れ統合していくものだと思います。

「見知らぬ他者と出会い、別の世界や生き方の可能性に触れる」

見知らぬ他者と出会い、別の世界や生き方の可能性に触れることで、それまで「輪郭」だと信じていたものが揺さぶられる。その揺さぶりによって「わたし」のなかの大きな欠落に気づく。その欠落を埋めようと、「わたし」がそれまでの輪郭をはみだしながら他者と交わり、変化していく。そんな経験だったのです。

この「可能性に触れる」という言葉が好きです。たくさんの問いを持ちながら、少しづつ可能性に触れていく。それがいつか現実になって目の前に現象として現れてくれるのまで諦めないでいたいです。その可能性は自分の中だけでなく、見知らぬ人との出会いや別の世界の生き方の中にあると思うから。

「自分とは違う世界を内側から理解しようとする」

現地の人々の生活に「参加」するようになってはじめて、マリノフスキは人びとと同じ視点に立てるようになりました。彼は、現地調査の最終的な目標とは
「人々のものの考え方、および彼と生活との関係を把握し、彼の世界についての彼の見方を理解することである」と書いています。自分の色眼鏡を捨て、現地の人と同じ視点から世界を見る。文化人類学は、そうやって自分とは違う世界を内側から理解しようとする学問なのです。

「内側から理解する」この言葉もとても好きです。理解することは、なんとかできるかもしれません。でも、「内側から」はとても難しいと感じます。おおよそ理解したというのは、わかったつもり、わかった気になっただけということが多いです。
「内側から理解する」は、「自分の色眼鏡を捨てる」ことであり、「同じ視点から世界を見る」ことだって、改めて気がつかされました。

「わたしたち」と「かれら」の境界線はひとつの固定したものではありません」

「わたしたち」と「かれら」の境界線は、ひとつの固定したものではありません。むしろ複数の線の引き方があります。


「わたし」は、複数のあり方にはみ出していながら、だからこそ固有であるようなやわらかな存在です。それを唯一絶対の固定的な境界線からとらえるような動きは警戒したほうがいいい。何かが決定的に失われてしまう。

「わたし」も「わたしたち」も固定されていないし、複数のあり方があるからこそ固有であるやわらかな存在。わたしたちはいつだって「こういうもの」という線引きをしてしまいがちです。でも、わたしもわたしたちもやわらかな存在なんですよね。とってもよく分かります。わたしもいつもそんな風に世界を見ています。

「周囲の変化に身体を開き、その外側に広がる差異に満ちた世界を交わりながら、みずからが変化することを楽しむ。」

周囲の変化に身体を開き、その外側に広がる差異に満ちた世界を交わりながら、みずからが変化することを楽しむ。いきあたりばったりの歩みのなかで「わたし」に起きる変化を肯定的にとらえる。そういう姿勢は、まさにさまざまに異なる他者とともに生きる方法です。そして、それは変化がいっそう激しくなるこれからの時代にこそ必要とされるのだと思います。

文化人類学は、つねに「わたし」を起点に世界を考えてきました。それは「わたし」の枠組みに自分を押し込めるのではなく、他者との境界を超えた交わりに「わたし」が開かれるような営みです。これがあたりまえだ、この考え方が正しい、といった固定的な「わたし」へのこだわりが他者との出会いによって覆される。(中略)固定的な「わたし」や「わたしたち」という檻に閉じ込めようとする力を揺さぶり、閉ざされた扉を少しでもこじ開ける手助けになってくれることを願っています。

「異なる他者とともに生きる方法」
①周囲の変化に身体を開き、その外側に広がる差異に満ちた世界を交わりながら、みずからが変化することを楽しむ。
②これがあたりまえだ、この考え方が正しい、といった固定的な「わたし」へのこだわりが他者との出会いによって覆される。
③固定的な「わたし」や「わたしたち」という檻に閉じ込めようとする力を揺さぶり、閉ざされた扉を少しでもこじ開ける

「わたし」は「わたしたち」とともに生きています、この世界の中で。その関わりはとてもやわらかです。
固定されるものも、閉ざされるものも、正しさも、「わたし」と「わたしたち」はそのやわらかさで溶かし、交わり、ともに生きていく、そんな世界を生み出したいと思いました。


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