映画『万引き家族』 子供には母親が必要なのか?
映画『万引き家族』(2018)
第71回カンヌ映画祭で最高賞パルムドールを受賞した、是枝裕和監督作品。
公開当初から話題を呼び、
テレビで何度か放映されましたよね。
アマプラで配信中ですし、一度は鑑賞したことあるという方も多いのではないでしょうか。
一応、あらすじを引用しておきますね。
ここでいう、幼女は「じゅり」という名前を持ちながら、
正体を隠すために5人からは「ゆり」や「りん」と呼ばれます。
ここでは。5人のスタンスにあやかるということで、「りん」と呼ぶことにしますね。
※ここからネタバレ
りんが団地内で一人凍えていたのは、ネグレクトである母親から締め出されていたからなんです。
その事情を察していた5人はりんを温かく迎え入れ、実の両親から庇うように愛を注ぎます。特に信代(安藤サクラ)は本当の母親のようにりんと接し、さみしさと無縁の日々をりんに捧げます。
しかし結局、りんは警察に保護され、実の両親のもとに戻されます。
この際、刑事は逮捕された信代に「(りんが自ら実の母親のもとに)戻りたいと言った」
との旨を告げるシーンがあるのですが、
どうもここが引っかかるんです。
本記事の本題はここ。
はじめ、このシーンを見たとき、
刑事は、「戻りたい」の本意を汲み間違えているという描写なのかな?と思ったんです。
りんは「(5人の家族のもとに)戻りたい」と言いたかったのに、
刑事はりんが実の母親に暴力をふるわれている事実を知らないがために、
「(実の母親のもとに)戻りたい」
と誤って解釈したのだと思っていました。
そして同時に、この刑事の誤解は、
家族愛とは何なのか?血縁関係=家族というものなのか?
という是枝監督の問題提起であると考えていました。
ところが、どの映画レビューを読んでみても
以上のような解釈をしたものは見当たらなかったんですよね。
どうやら、りんの「戻りたい」との発言は、
「(実の母親のもとに)戻りたい」
で間違いないようなんです。
母親からあれだけの暴力を受けておきながら、なおも母親のそばにいたがる子供を描写することで、家族愛に対しての問題提起をしている、
との見方が多いようなんですね。
うーむ。
確かに、その方が社会の底辺を生きる人々を繋ぎ止めているモノへの懐疑心や現代社会が抱える負の側面の解きにくさを風刺しているようには思えます。
親と子との共依存があるからこそ、愛の代わりに暴力が注がれる親子関係でも家族関係は継続していくものだと、
単に愛を選べる環境に、社会の弱者は置かれているのだと暗示しているということですね。
いやあ、でもでも、
だとしたら何故、信代も「(実の母親のもとに)戻りたい」と解釈したのでしょう?
りんの家庭内での素性を知っている信代なら、
「りんが戻りたがっているところは、実の母親のところじゃない」
なんて言いそうじゃないですか?
やはり信代自身も、親からの愛がどんな形で子供に注がれようとも、
”実の母親”が子供には必要なのだと
どこかで感じていたということなのでしょうか。
子供には(実の)母親が必要なのでしょうか?
『万引き家族』は、そんなやるせない疑問を
かき乱してくれる作品です。
まだ見たこともないという方は、ぜひに。
P.S.
この映画の解釈について、ご意見のある方がいらっしゃればコメントお持ちしております。