リレーレビュー企画⑤ 呉勝浩『スワン』
推薦文
『スワン』は真実にまつわる小説です。悲劇の裏で何があったのかめぐるお茶会で明らかになるのは、単に何があったのかだけでなく、その事実の裏にある葛藤と決断に他なりません。その先に立ち上がる、黒と白とも悪とも正義とも言い切れない、複雑なグラデーションに彩られた人間像には、単なるフィクションとは退けられない、リアリティを帯びた凄みがあります。このような傑作を一人でも多くの人に読んでもらいたいと思い、推薦しました。
(葉月)
レビュー
僕らはいつも線を引きたがる。真実と虚構、英雄と悪漢、傑作と駄作。ボーダーラインによって世界を区切り、安定した遠近法をつくりあげる。でも、生の現実は二項対立の枠組みをはみ出し、その視野を逃れてつづく。
途方もなく残酷で、どこまでも固有な経験のリアル。それを「悲劇」と呼ぶこともできるだろう。不意に訪れ、いつまでもとどまる。悲劇は終わらないし、克服されることもない。それでも、ひとは生き延びようとする。
けれど、いかにして?
呉勝浩『スワン』は、消失点の先につづく現実を直視し、白と黒のすきまにこぼれる色を描き、運命として片づけることなく偶然に対峙する小説である。
白昼のショッピングモールで起きた銃乱射事件を描く冒頭の数十頁は、出来事の悲惨さにもかかわらず、ことさら抑制的に語られる。起きつつあることを淡々と描くその筆致には、娯楽性も、スペクタクルも欠けている。犯人たちの期待していた映画的な、世直し的な充実もない。あるのは、ただただ不快な、虚脱と動揺。
発砲と殺戮は、繰り返される「ドン、ドン、ぽいっ」というチープなオノマトペによって、要約されている。反復する「ドン」に対して、漫画的で間の抜けた「ぽいっ」が重なる。その響きには、後段の「NO動画」(犯行記録映像)の描写に頻出する「ドン、ドン、カン」の重みはない。むなしく退屈で、だからこそ、リアリティなきリアルがある。
これが映画だとすれば、娯楽映画ではなく、ドキュメンタリーである。たとえばそれは、銃の発砲を同じく「ドン」というオノマトペを用いて描いている、あるアニメ映画監督によるノベライズ作品の一節と比較してみると、明らかだろう。
模造拳銃の乱射には、こうした発砲の一回性、「本物」らしさ、リアリティが欠けている。標的はランダムで手当たり次第。居合わせたひとびとにとって、撃たれて死ぬか、まぬかれて生きるかは、確率的である。
悲劇は、その悲惨さにおいて以上に、確率的で反復的で、なかったかもしれない出来事だからこそ、悲劇と呼ばれる。銃の乱射事件は、まさにその意味において、悲劇である。
生き残ったものにとって、悲劇は過ぎ去らず、いつまでもとどまりつづける。生き延びるために悲劇の因果に一線を引こうとあがく当事者たちに対して、傍観者たちは、責任や正義の名のもとにボーダーラインを書きなぐる。メディアもSNSも、悲劇のヒロインに喝采し、悪とされた者を糾弾する。
『スワン』の主人公となる高校生の片岡いずみは、犯行における出来事のなかで務めたある役回りのせいで、被害者から一転、非難の的となる。数か月後、打ち込んでいたバレエもやめ、学校にもいかず、世間から隠れるように暮らしていたいずみは、一通の招待状を受け取る。母親の死の経緯を知りたい被害者遺族のひとりの希望で、五人の事件関係者を集めた会合がもたれることになったというのだ。
犯人たちの死と記録映像によって、法的には決着のついていた事件。だが、会合が進行するにつれて、徐々に見えていなかった「真実」が明らかになってゆく。それは、事前に計算され、「伏線回収」という演出のもとに披露される真相ではなく、経験の語りや柔軟な想像力のうちに生成される、切実なリアルである。
傷ついた母親とのケアしあう関係や、さまざまな立場で事件に関わった人々の実感にふれながら、いずみはひとつの決断を下す。英雄としてでも、悲劇のヒロインとしてでもなく。生きることをあきらめないために、「世界への信頼の回復」をはたすために。
過去と未来、有罪と無罪、誹謗と名誉のあいだで、ボーダーラインを越える、闇のなかの跳躍。そのとき、少女が突きつけられてきたいくつものpas(=「否定」)は、生きることを肯定する希望のpas(=「歩み、ステップ」)へと、反転する。
ミステリは謎への不安を解消することによって、世界の秩序を回復する。多くの評論や批評が語るそんな決まり文句に、僕はいつも、不信感をもってきた。『スワン』が提示する答えは、紋切り型を跳び越えて、ミステリの可能性を信じさせてくれた。
ミステリとこの世界を信じられないあなたにこそ、ぜひ読んでほしい。
(赤い鰊)
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