特別限定公開「ヴァース・ノベルの蘇生––(それでも書かれる小説に向けて)––」
やんぐはうす-ヴァースノベル研究会はこの度東京文フリ39:せ-20でヴァースノベル同人誌『改行 vol.2』を頒布します。
今回はその試し読みとして、同誌収録の編集長東堤翔大 a.k.a 岸田大によるエッセイ「ヴァース・ノベルの蘇生––(それでも書かれる小説に向けて)––」の一部を特別限定公開します!
2.亡びゆく純粋なものへ
小説というものに対してどういう原理的な問いを立てられるかというと、そのアプローチは実はそんなに多くないのかもしれない。
一つは物語。二つは言葉の問題だ。
「何を書くか」と「いかに書くか」の問題だ。
一般的に、これらの区分は小説の世界では大衆小説の直木賞と純文学の芥川賞の二つに対応させることができる。
直木賞は、どちらかというと大衆性があり、それは物語の磁場が強い。
芥川賞はもう少し入り組んでいて、言葉の問題の方にも磁場を絡め取られている。しかし物語と言葉の問題において、より言葉の問題に接近することが多いのは確かに芥川賞の方だが、芥川賞、というか純文学は、興味深いことに、たんに言葉だけではなく常に物語の問題についてもある程度の目配せがある。逆にいえば、直木賞は小説といっても、あまり言葉の問題に深入りはしない。
直木賞は小説の物語の側面が重視され、芥川賞は小説の言葉の側面が重視される。と、すぱっと切り分けられてしまえば話はいくぶんややこしさが減るのだが、どうにもことはそう単純ではない。
これは端的に「純」文学が、小説のメディア表現としての純粋性、つまり小説の本質論に踏み込んでいるからだ。これはそんなに難しい話ではない。
小説の本質性、それをつまり、ひとまず言葉によってなされるということ。そう仮定をおいてみるならどうだろう。
もしそのような仮定をおくなら、「純」文学のその小説の純粋性である言葉は、それは散文の問題と言い換えることもできる。しかし、その問題意識の先においてそれは詩の問題を呼び寄せてしまうのは間違いない。
つまり小説という散文と、自由詩というある種の散文詩、それは何が異なるのかという問題だ。
だから、「純」文学は、いつまでたっても皮肉なことにその純粋性への志向ゆえに純粋になりきれない。純粋になりきったら、それはまずもって詩と区別がつかなくなる。小説は言葉の問題のなかに原理的に物語という不純物を混ぜ込むかたちでしか純粋になれない。小説はある意味では、本質的にはなから混ぜ物なのだ。
おそらく、いま僕が「純」文学が純粋になりきったら、それは詩になってしまうといったことを本当の意味で純文学的な問題意識を真剣に考えている人は違和感を持っただろう。
言葉の問題の純粋性を突き詰めた先になお、詩と異なる言葉を夢見ることが純文学の夢だといまあなたは無意識に考えたのかもしれない。一理ある。
詩と異なる言葉を夢見ることの極致に至って、実は物語の問題が回帰してくる。ここでいう物語はむしろ起承転結や起伏があって、娯楽性があるタイプの物語というよりもある種ダンスに近いような「認識」に接近しているのかもしれない。
それは自己の表出たる詩というよりも、世界をいかに描写するかという意味での散文だろう。それはある特定の人物の行動を描く物語ではなく──例えば「桃から生まれた男が鬼を退治しにいく」といったものではなく、ある一人の人間の「認識」──「目の前のあるなんらかの物事の動きが存在すること」を、「それは鬼(と呼ぶなんらか)が棍棒(と名づける物体)を振り回して人間(名づける存在)を襲っている(という行為名称を与える)」というある現実状況をある言語で「認識」することそのものが物語なのだ。
詩的な言語性でなく、また娯楽的な物語性でもない、認識的な物語に近い散文の追求、そしてその世界を描写せんと追求するなかで逆説的に浮かび上がる自己の探求。
なるほど、純文学の純粋性はある意味このようなかたちで取り出せるのかもしれない。
しかし、はっきりいってしまうが、この線は純文学はもう捨てるべきだ。なぜならこの認識的な散文の追求によってたって、純文学はもはや取り返しのつかないほどにまでジャンルとして読者を失い、衰退しているからだ。
おそらく、それでも純文学にこだわる、ある意味素朴に純文学を愛している人には申し訳ないが、この小説愛好家的な、この認識的な物語に近い散文の追求の態度、つまりここにこそ本当の意味での言葉の娯楽性があるという、面白くない小説が面白く思えるこの手の人たちのマゾヒズムの痛々しさは閉塞感とともに公共性を失っているのだ。
文学の公共性? なんだかどんどんと人を怒らせるようなことを言っている気がするが、あなたがいまもし、文学というのは誰からも理解されない孤独のなかでも、なお個を確立させて、全体主義的な世界と自分の側で、なお自分を維持し続けることが文学というロマンだと考えているなら。
考えているなら、ご自由にどうぞ。
自らの内閉性を問わず疑わず、滅びゆく場所で滅びればよろしい。
ただ、もしあなたがこの甘い滅びを待つ海岸で立ち上がる勇気を持ったなら。
砂を払って、立ち上がり、
この海岸沿いを歩き、
そして、この滅びゆく世界の出口を共に探そう。
僕らはヴァース・ノベルなのだから。
さてどこに行こうか。
3.「言葉の物語」か「物語の言葉」か──谷崎と芥川の小説の筋論争
もう一度物語と言葉の関係について改めて考えてみよう。
例えば、この小説をめぐる物語と言葉の問題、この論争的な問題を文学史の任意のところで探し出すのはそんなに難しいことではない。
「何を書くか」と「いかに書くか」の問題は文学のあらゆるところでいつも問われている。
例えば、今ぼくの手元には芥川龍之介と谷崎潤一郎の筋、つまり物語を巡る論争をまとめた文庫本が一冊ある。
繙いてみよう。
芥川くんの説に依ると、私は何か奇抜な筋と云うことに囚われ過ぎる、変てこなもの、奇想天外なもの、大向こうをアッと云わせるようなものばかりを書きたがる。それがよくない。小説はそう云うものではない。筋の面白さに芸術的な価値はないと大体そんな趣旨かと思う。しかし私は不幸にして意見を異にするものである。(谷崎潤一郎「饒舌録(感想)」、『文芸的な、余りに文芸的な—饒舌録ほか』、芥川龍之介—谷崎潤一郎、講談社、2017年、17‐18頁)
これは小説の筋論争という文学史では有名な芥川龍之介と谷崎潤一郎の論争における谷崎の一文である。「芥川の説」はあとで説明するが、いまはもう少し谷崎の論理を続けた方が二人の立場がわかりやすいと思うので引用を続ける。次の箇所は先の引用のすぐあとの箇所である。
筋の面白さは、云い換えれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築的な美しさである。此れに芸樹的価値がないとはいえない。(材料と組み立てとは自ずから別問題だが、)勿論こればかりが唯一の価値ではないけれども、凡そ文学に於いて構造的美観を最も多量に持ち得るものは小説であると私は信じる。筋の面白さを除外するのは、小説と云う形式が持つ特権を捨ててしまうのである。そうして日本の小説に最も欠けているところは、此の構成する力、いろいろ入り組んだ話の筋を幾何的に組み立てる才能、に在ると思う。
(中略)
「俗人にも分かる筋の面白さ」と云う言葉もあるが、小説は多数の読者を相手とする以上、それで一向に差支えない。芸術的価値さえ変わらなければ、俗人に分からないものよりは分かるものの方がいい。妥協的気分でない限り、通俗を馬鹿にするなと云う久米君の説(文芸春秋二月号)に私は賛成だ。(同前、18‐20頁)
さて、これに対して芥川の反論はどういうものだったか。引用する。
僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思っていない。従って「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言わない。第一僕の小説はたいてい話を持っている。デッサンのないは成り立たない。それと丁度同じように小説は「話」の上に立つものである。
(僕の「話」と云う意味は単に「物語」と云う意味ではない。)し厳密に云うとすれば、全然話のない所には如何なる小説も成り立たないであろう。
(中略)
しかし或る小説の価値を定めるものは決して「話」の長短ではない。況や「話」の奇抜であるか奇抜でないかと云うことは評価の埒外にある筈である。
(中略)
更に進んで考えれば、「話」らしい話の有無さえもこう云う問題に没交渉である。僕は前にも言ったように「話」のない小説を、──或は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思っていない。しかしこう云う小説も存在し得ると思うのである。(芥川龍之介「文芸的な、余りに文芸的な」、『文芸的な、余りに文芸的な—饒舌録ほか』、芥川龍之介—谷崎潤一郎、講談社、、講談社、2017年、27‐28頁)
さらに芥川の筆からは僕らにとって興味深いことに「詩」という言葉が飛びだす。せっかくなので、そこも引用しておこう。
「話」らしい話のない小説は勿論身辺雑記を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遥かに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思っていない。が若し「純粋な」と云う点から見れば、──通俗的興味のないと云う点から見れば、最も純粋な小説である。(同前、27‐28頁)
芥川は「『話』らしい話のない小説を最上のものとは思っていない」とはいうが、それでも「話」らしい話のない小説は「最も純粋な小説」であるとはいう。これは先ほどまでみてきた純文学と大衆小説との関係における、その考えのプロトタイプのようなものであるといえる。芥川の純文学論は現在主流の純文学観の出発点であり、その基盤なのだ。
芥川のいう「話」らしい話のないというのは、筋、つまり起伏のある展開的で構築的な物語性、もっと言えばそれによって生じる「娯楽的な物語」がないということだ。翻って「話」らしい話のない純粋な小説とは、まさしく通俗的な娯楽性のない、いま純文学の通念となっている「認識」的な物語についてだと解することができる。
興味深いのは芥川はそれを単なる身辺雑記ではないと書き付けているところだ。身辺雑記、いってしまえばその言い方は安易な私小説批判だ。芥川は単なる素朴な私小説を越えたうえで、そこに理想として見出すのが「詩」という観念だった。
実際、芥川は詩人の萩原朔太郎と深い交流と共感があったことで知られている。そのような人間関係を持ち出さなくても、実はこの引用の少しあとで芥川自身が北原白秋の詩的散文の影響を告白している。
芥川の論ばかりを追ったので、谷崎の論もみておくと、谷崎は自身の論として筋の面白さの重要性を指摘している。この筋というのはは芥川のそれよりも娯楽性の色合いの強い物語といえそうだが、わかりやすく今風にいえば、それはプロットという言い方になるかもしれない。
谷崎が通俗小説の大衆性というものに視線を失っていないのは、僕らとしても等閑にできないが、しかし確かに筋の面白さ、つまりプロットの面白さを小説の本懐としてしまうなら、そのプロットの面白さは小説が小説であることの必然性として果たして成り立つだろうか。
実はこれもネタバラシをしてしまえば、芥川もやはり論争のなかでそのことは指摘していて、戯曲を例にあげて、「筋」を小説のアイデンティティとすることの不可能性を指摘している。
少々、細かくみすぎてしまった嫌いはあるが、僕らがここで押さえておきたいのは、純文学上で行われている議論はこの谷崎芥川論争でその問題はすでにそのスタート地点から問われているということだ。
理論的にどちらが正しいかというのは置いておいても、少なくとも現実の今の純文学は芥川の側の問題意識に大きく負っていることだけは明白だろう。
だとするならば、純文学の再興の論理として、単に「話」のない話、つまり認識的な物語とそこと絡み合った「言葉」という戦略はたんに純文学のスタート地点に戻るだけで前進のない屋上屋根を架しているだけといわざるを得ない。
やはり僕らが「純」小説の再興としてのヴァース・ノベルの道筋を見つけたいなら、既存の純文学の論理を踏み越える勇気を持たなくてはならない。
では、それはいかなる筋道か。
4.娯楽の小説と小説の政治
物語というものをここまで僕らは二種類みてきた。それは娯楽性のあるものと、娯楽性の薄い「話」らしい話のない話二つだった。
後者の現状の純文学的な物語が力を失っていることはもはや明白だ。
すると残された道は大衆小説としての「話」らしい話のある娯楽小説なのだろうか。
実は純文学を、通俗の道、つまり大衆への道を娯楽性ではないかたちで接続するものが一つある。
この続きは東京文フリ39、せ-20で!
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