東京の私大を目指して、山坂達者(長男編)
スポーツ少年団で剣道をしていた長男は、友達から「塾は楽しいよ」と聞き小学5年生から学習塾通いを初めた。
子供の豊かな人生のために、向学心を持ち塾に通う事は親としては嬉しい事だった。そして、良き人で健康であれと願った。
長男は自然の流れで、どうしても私立中学校に行かせてほしいと懇願した
自転車通学で頑張るなら、と許可をし応援をした。息子は剣道をやめて勉強に打ち込み、夜遅くまでの塾通いや模擬試験で少しずつ力をつけていった。
目と鼻の先にある小学校から帰ると、「今日のおやつは何」が口癖で、腹ごしらえをして通塾する姿は楽しそうだった。
塾の模擬試験の日は、玄関先で小学2年の次男と幼稚園児の娘と私3人で「フレーフレーお兄ちゃん」と励まし見送ると、はにかむような笑顔で出かけて行った。
コツコツ勉強した甲斐があり、長男はどうにか補欠入学でK中学に滑り込みを果たし、念願の中高一貫校で学ぶ事になった。合格の知らせが届いた時は家族全員で歓喜した。
そのK中学までは片道15キロの道のりで、途中には勾配のきつい3キロの坂道もある。その坂道の一部は螺旋になっている、おまけに100メートル程のトンネル付きで交通量が多かった。息子は、そんな厳しい条件の道路を自転車で6年間、何一つ文句を言うでもなく通学した。
行きは下り坂で良かったが、帰りは急な登り坂で小学校を卒業したばかりの小柄な息子には過酷だった。
登校1日目に自宅に帰り着き、玄関を開けるや否や玄関の上り口に倒れ込み精魂尽きて、そのまま眠ってしまった
身体を揺り動かしても目を閉じたままグッタリと15分間程そのままだった。
その姿に涙が滲んだが、獅子は我が子を千尋の谷に落とす、という諺が頭を過り「私は獅子にでもなろう、時には心を鬼にして見守ろう」と強く心に刻み込んだ。
何日かすると、少しでも楽をしたかったのか、距離が1キロは短そうな旧道の坂道を自転車をゆっくり押しながら帰るようになった。坂道の登り口では一旦休憩をする事もあると言っていた。
入学後の3ヶ月位は、学校に通うだけで精一杯で自宅学習どころではなく勉強が遅れてしまった。
ついには英語の先生から「英語の三単現も分かっていません、お母さんも時々見て教えてください」と電話で言われる始末だった。
私は狼狽したが、先生に具体的な指摘をしてもらい、私立中学に入れて良かったと感謝した。
そして、英語の指導は、英文科出身の夫の出番だと任せる事にした。私の役目は鼓舞激励と健康管理しかない。
早速、夫が三単現を理解させるために良い参考書や問題集を探し買い与た。その頃は体力も増し、学校にも慣れ以外にも早く理解し吸収していった。
学校では、ラジオの基礎英語の番組を利用した勉強があり真面目に自宅でも聴いて更に力がついてきた。
ある日、夫がインタビューフラッシュという、カセットテープを買ってきて聞かせると、英語に対する興味が増したようだった。
インタビューフラッシュは、多方面の専門家にインタビューする様子を録音し、専門的な充実した興味深い内容になっていた。
また、夫の影響でビートルズの曲を好んで聞くようになり、他の洋楽のアーティストにも興味を持ち英語力は更に伸びていった。
「映画館で洋画を見て英語の勉強をするからお金をください」と手を出す息子に、上手い事をいうなと訝しんだが、勉強の2文字には弱くて渡してしまう事が幾度となくあった。
英語の先生から「今度のテストはビリじゃ」と言われた日から、何年経っただろうか、高校生になると英語だけは、上位の成績を修めるように成長していた。
目標も定まり受験勉強は、赤本の過去問を解いたり模試の結果に一喜一憂したりと佳境に入った
いよいよ大学受験の日が近づき、友人と東京の私立大学を目指して上京する事になった。
第一志望の早稲田大学は、まだ東京にいる時に不合格の知らせがあり、滞在しているホテルのエレベーターの中で、面識のない紳士から「受験に失敗したんだね。まだこれからだ、頑張りなさい」と声をかけられたそうだ。相当な落胆だったのだろう、項垂れる姿が目に浮かぶ。
暫くして青山学院大学の国際政治経済学部の試験があり、無事合格を手にした。夫が、おめでとうの言葉もそこそこに「浪人するのか」と尋ねた。「いや、しない」とあっさりしたものだった。
担任の先生に勧められた青学は、英語の合格点数が高いので無理だと本人は思っていた。受験当日、設問の中に日本は国連の常任理事国になるべきか否かについて、英文で自分の考えを述べよ。とあったらしい。
それについては「偶然に見たテレビで国連の常任理事国についての番組があり、それを見て自分の考えがまとまっていたから簡単に書けた、その問題は点数配分が高かったから、そのお陰で合格できたのかも」と嬉しそうだった。
東京の私大への進学を祖父母も喜び息子の新たな門出を皆んなで祝い、めでたく上京の運びとなった
母としては、ついつい厳しい言葉を発して、鼓舞とやらは何処へという事も多々あったが、風邪も引かせず元気な受験生に育てた事は自負している。
急な坂道は、小柄な身体にはどんなに辛かっただろう、雨の日はカッパに身を包み、夏の暑い日には汗だくになり、がむしゃらに頑張った息子を思うと目頭が熱くなる。
ある近所の主婦に「どうして、あんな道を自転車で通わせるの、可哀想に」と言われた事もあった。
「バスの乗り替えが不便だし、下の2人の子供も同じように私立に行く事になれば、交通費だけでも節約しないと家計は火の車だから」と言いたかったが口を噤んだ。
夫が、試しにその旧道の坂道を自転車を押して登ってみると、勾配が急で、油断すると坂下に転落していきそうで、1度切りの経験で充分だったようだ。私はその旧道の坂道を見る勇気が未だにない。
久し振りに帰省した息子を車に乗せ、夫が運転をして夜の街を自宅へと走っていた。いつものように、坂道になりアクセルを踏みエンジン音が大きくなった。私は助手席に座り、徐々に坂道を登って行く車窓から、煌めく星のように輝くネオンを眼下に見下ろし、綺麗な夜景だなと思って眺めていた。
すると「もうあの坂道は登りたくないなー」と息子が、後部座席で懐古するように静かに呟いた。
地元には山坂達者という言葉がある。急な傾斜の坂道の通学路で体力、気力が身に付いた筈だ。これから先、苦難が訪れようとも軽々と乗り越えるだろうと、信じずにはいられない。
息子の英語の成績が上がった事で気づいた。人間は興味を持つと学びたくなり、次々と試練を突破していける。そうする事でいざという時に幸運がやってくる。長男の後ろ姿に学んだ。